このページでは、ドイツ陸軍の突撃砲搭乗服を紹介します。
   

はじめに
 
 本コンテンツでは、陸軍の突撃砲搭乗服を紹介する。
 この服は突撃砲搭乗員も着用していたが、装甲科と砲兵科、さらには装甲擲弾兵などの着用例があるため、 ”装甲部隊及び自走砲兵(装甲砲兵)用特別被服:Sonderbekleidung für Panzertruppen und S.F.L. Artillerie Einheiten”との呼称がある。
 本コンテンツでは、現状では突撃砲搭乗服の名称が一般的となっているため、砲兵科の被服に関しては、突撃砲搭乗服の呼称を使用し、装甲科で使用していた被服に付いては対戦車自走砲搭乗服とした。
 ただし、実際には戦車不足を補うために、突撃砲を戦車の代用として装甲科で使用した事などもあったため、本来は砲兵科、装甲科などの装甲車輌搭乗員用特別被服といった、兵科や任務を中心にした区分の方が妥当であると考えている事も記しておきたい。

 本コンテンツを制作するにあたり、貴重なコレクションを取材させて下さった舟橋氏、Pucki氏、またヴァルター・ラップホルツ曹長の個人特定情報をご教示下さった、北村氏に、この場であらためて感謝の意を表します。

 
   

 舟橋氏 コレクション
 
陸軍砲兵科二等兵の突撃砲搭乗服

 突撃砲搭乗服は、1936年に導入された戦車搭乗服2号と同じ裁断で作られていた。
導入時期は1940年5月29日で、当初の突撃砲搭乗服の襟は野戦服と同じダークグリーンであった。そして、1939年には戦車搭乗服の襟周りの兵科色パイピングが廃止されていたため、突撃砲搭乗服の上襟の周囲には、兵科色パイピングは付けられなかった。(写真ではパイピング付き搭乗服も確認できるが、改造品もしくはオーダーメイドである)
 ダークグリーンの襟の突撃砲搭乗服の生産数は少なく、その後通常の野戦服の襟と同じように、突撃砲搭乗服の襟もフィールドグレーに変更されたため、ダークグリーン襟の搭乗服は当時の写真でも珍しい。
 野戦服の襟がフィールドグレーに変更されたのも1940年5月なので、当然この通達前に発注されていた極初期の突撃砲搭乗服は、ダークグリーンの襟が付けられていたが、突撃砲搭乗服が採用された時点では野戦服の襟の変更が行われていたため、急遽突撃砲搭乗服の襟の色も変更されたのであろう。

 当初は突撃砲搭乗員のみに支給された突撃砲搭乗服も、1942年6月26日付通達により、乗員以外の突撃砲部隊員に支給される事となり、さらに後から自走砲乗員などの装甲砲兵や装甲列車乗員の着用が認められるようになった。

 写真は未使用の突撃砲搭乗服で、徽章から1944年以降に生産された末期の突撃砲搭乗服であると思われる。
 

 

 舟橋氏 コレクション


突撃砲搭乗服の内装

 突撃砲搭乗服の内装の作りは戦車搭乗服と同じである。
 この搭乗服の裏地はペルロンで、左右に内ポケットが付けられている。右胸の内ポケットは上から、左の内ポケットは斜め上から使えるように取り付けられている。
 ペルロンはドイツIG染料工業が1942年に発表した合成繊維である。ペルロンもレーヨン同様に、コットンの代用品として使用されていたが、レーヨンが木材又はセルロース製品より製造されていたのに対し、石炭・石灰・水を主成分とする合成繊維である。

 写真中央やや右に見える2本の白い紐は、ウエストを絞るための物。
 脇の下から下がって見えるのは、ベルトフック金具取り付け部分である。

 
   
各部のディティール
   
国家鷲章

 この服には、1940年6月4日に導入された国家鷲章が付けられている。
 この国家鷲章は、フィールドグレーベースにマウスグレーの低視認タイプの国家鷲章である。

 興味深いのはその縫い付け方で、1944年に導入された国家鷲章同様に、逆三角形に折り返して服に縫い付け、図柄通りに折り返す手間を省いている点である。

 これは、この服が1944年以降に生産された事を示していると思われる。

襟章
 
 この突撃砲搭乗服には1940年5月9日に導入された、低視認性の各兵科共通の襟章が台布無しで、襟に直に縫い付けられ、その襟章の周りには、砲兵の兵科色である赤の縁取りが施されている。
 縁取りには、野戦帽の兵科色を示す山形:Soutacheとして縫い付けるレーヨン製の綾織テープが使用されている。

 また、この写真では襟章が縫い付けられている位置にも注目してもらいたい。
襟章は画像の上と右で襟と平行に、そして襟の高さのほぼ中央に位置するように縫い付けられている。
襟章のクローズアップ

 この襟章を良く見ると、襟章の左下と縁取りが重なっており、襟章を縫い付けた後に縁取りを縫い付けていた事がわかる。

 また、兵科色の縁取りテープのつなぎ目が、やはり右下に見えるが、テープの端部は折り返したり、重ね合わせて始末するのでは無くて、この部分の襟に穴を空けて裏側に通している。

襟のディテール
 
 襟の裏側を見ると、裏地にはストーングレーのウール地が使用されている。これは1939年までの野戦用ズボンの生地で、おそらく在庫としてあったウール地を使用したものと思われる。
 また、この写真でも上で記したように兵科色の縁取りテープが、襟を貫通させているのも確認できる。
襟と襟章取り付けのディテール

 この写真で、兵科色の縁取りテープが、襟を貫通させ、裏側で端部を処理している様子がはっきりとわかる。
 また、襟章の右側はステッチが重なっており、まずこの部分を縫った後に、襟章の形を整え全周を縫っていた事もわかる。

 そして、襟章と縁取りの裏糸の色とピッチが異なる事から、襟章と縁取りは異なる工程とし、流れ作業で生産されていた様子が伺える。

肩章
 
 この服には、陸軍砲兵兵卒の末期型脱着式肩章が付けられている。肩章用のボタンは1943年以降に使用された、パンツァーグラウに塗装された金属ボタンである。

 この19mmの金属ボタンは、通常の野戦服にも使用されていた物で、かつては野戦服の生地に合わせて、フィールドグレーに塗装されていた。
 
陸軍砲兵兵卒の末期型肩章
 
 写真上は、陸軍砲兵兵卒の末期型脱着式肩章で、上が表面、下は裏面である。
 上で紹介した突撃砲搭乗服に付けられている物とは使用生地が異なるが、同型の肩章である。
 この肩章は画像の通り、芯材や裏地を廃した作りで、裏側のセンター部に補強のためのテープが縫い付けられている。

内装のディテール
 
 この服の内装は前述の通り、細かい材質の違いを除けば、戦車搭乗服2号と同じ作りである。

 写真は右前身ごろと背の一部を撮ったもので、左が右前身ごろである。
 右前みごろの内側に付けられた内ポケットは、四角形の貼り付けポケットで、上から物が入れられる様に作られている。

 写真中央やや下の、白い紐が垂れ下がっているのが、ウエスト絞りである。

 ウエスト絞りとクロスする形で、ベルトフック金具取り付け部が設けられており、4ツ穴の空いているグレーのベルト状の部分にベルトフック金具を取り付け、水平方向にステッチが入れられている部分からベルトフック金具を外側に出して使用する。
 戦車搭乗服や突撃砲搭乗服の場合、歩兵などの野戦服に比べると、ウエストベルトから重量物を吊り下げる事が少ないので、この部分は使用されていないケースが多い。
 このベルトフック取り付け部は、実際にベルトフック金具を通すためには、前身ごろと背の合わせ目の糸を水平方向のステッチの間で切って、ベルトフックを通す穴を完成させる必要がある。
この服のスタンプ
 
この服には、生産工場を示すスタンプ以外は、押されていない。これは工場で生産したものの、軍に納入される前に戦争が終わっていましったか、工場が敵の手に落ちてしまったためと思われる。

しかも、この服の生産工場を示すR.B.Nrは、右身頃の内ポケットの中に押されており、通常軍装補給廠の所在地名の略号と製造年のスタンプ、サイズスタンプが押されている左身頃の内ポケット上部には何も押されていない。

徽章類の補足

 
1940年型国家鷲章
 
 上で紹介した突撃砲搭乗服では、国家鷲章の図柄通りに折り返す工程を省いてあるが、本来は写真のように縫い付ける事を意図してデザインされていた。 


 
1944年型国家鷲章
 
 1944年に導入された国家鷲章で、鷲章自体のデザインは1940年型と同じであるが、服に縫い付ける際にはベースに沿って、逆三角形に折り返すだけでよい、省力化タイプの国家鷲章である。
 この新型国家鷲章の導入により、在庫の国家鷲章を縫い付ける際にも、逆三角形に折り返すだけの簡素化が認められた 。
 
突撃砲搭乗服の襟章

 
   
トーテンコップフ章を付けた襟章
 
 突撃砲搭乗服は戦車搭乗服をモデルに作ったため、その襟章は戦車搭乗服の襟章を模した物となった。当初の襟章は搭乗服の襟に合わせたダークグリーンの台布に、砲兵の兵科色である赤い縁取りを施し、その中央にトーテンコップフ章を付けた物であった。
 しかし、突撃砲搭乗服の襟が、服本体と共生地で作られる様に変更されたため、ダークグリーン地の襟章は最初の支給分のみとなり、それ以降は戦車搭乗服用の黒の台布に、赤の縁取りを施した襟章が、更にはフィールドグレー地に赤の縁取りが施された襟章が生産された。
 また、襟に赤の縁取りを縫い付けて、トーテンコップフ章を付けた服もあった。
 しかし、1943年1月には砲兵科でのトーテンコップフ章の使用禁止命令が出され、取り合えずトーテンコップフ章を外したり、通常の各兵科共通襟章(ドッペルリッツェ)を付けた襟章に交換された。
 トーテンコップフ章は元来、帝国軽騎兵の徽章に由来するため、その伝統を引き継いだ装甲科から、帝国軽騎兵とゆかりのない砲兵科による使用へのクレームが原因とされているが、装甲科の戦車猟兵部隊が自走対戦車砲を運用するにあたり、一目で兵科を区別できるようにとの思惑もあったと考えている。

 写真左が黒台布に赤い縁取りを施したタイプ、右がフィールドグレー地に赤の縁取りを施した襟章である。
 
ドッペルリッツェンを付けた襟章
 
 ドッペルリッツェン:Doppellitzenとは、2本(ダブル)のモールとか組紐の意で、元々の襟章の作りに由来した名称である。

 この襟章は、砲兵科でのトーテンコップフ章使用禁止令が出る前から使用されており、当初はダークグリーンの台布にドッペルリッツェンを縫い付け、赤の縁取りを施した物が、後には写真の様にフィールドグレー台布にドッペルリッツェンを縫い付け、赤の縁取りを施した物が使用された他、ドッペルリッツェンと縁取りを直に襟に縫い付けた搭乗服もあった。

 同一の被服に2種類の襟章が制定されるのは異例であるので、元々は突撃砲搭乗員のみに支給されていた搭乗服が、搭乗員以外の部隊員に支給された時点か、突撃砲部隊以外に支給され始めた時期に導入されたと考えるのが妥当だと思われる。
 
 
各兵科共通のドッペルリッツェン:Einheitslitzenのバリエーション
 
 陸軍下士官・兵用襟章(各兵科共通)で、突撃砲搭乗服の襟章に使用された事がある物として、1938年11月26日に導入された各兵科共通の襟章(写真上)。そのバリエーションで低視認性タイプ(写真中)。
この2種類の襟章は、元来ダークグリーンの襟に合わせた物である。
 写真下は1940年5月9日に導入された、野戦服の襟が服本体と共生地になっている事を前提としてデザインされた各兵科共通の襟章である。
 このドッペルリッツェンは、前線で交換するには手間が掛かるので、ダークグリーンの台布にあらかじめ縫い付けた物が用意されていた。赤い縁取りを施したダークグリーン台布にドッペルリッツェンが縫い付けtられた襟章は、おそらくこの交換用襟章を流用した物ではないかと考えている。そう考えると、確認されてはいないが、赤の兵科色入りのドッペルリッツェンが使用された可能性についても説明がつくだろう。
 
砲兵将校の徽章
 
 この突撃砲搭乗服には、陸軍砲兵将校用襟章と、砲兵科大佐の肩章が付けられている。

 将校も当初はトーテンコップフ章付き襟章を使用していたが、1942年頃より兵科色の縁取りを付けた下士官・兵用各兵科共通襟章の使用が始まった。

 1943年1月に、砲兵科でのトーテンコップフ章の使用が禁止されて以降は、全て下士官・兵用各兵科共通襟章や、この砲兵科将校用襟章に切り替えられた。

上でも記した様に、1942年の段階で、トーテンコップフ襟章を使用していなかった将校は、装甲砲兵や突撃砲に搭乗しない将校だったのではないだろうか。 


砲兵将校用徽章
 
 砲兵将校用襟章は、写真上のモール手刺繍によるタイプと、写真下のBEVOタイプの襟章があった。

 将校にはスチールヘルメットが支給されたが、それ以外の被服は被服費として支給され、自費と合わせて購入したため、予算に応じてこれらの徽章も選択できた。

 将校が野戦で着用する野戦服や搭乗服では、襟章や国家鷲章などは工場出荷時に付けられている下士官・兵用のままで着用している例もあるが、これはモール手刺繍の徽章が戦場では目立つのと、その値段が決して安くはなかった事も関係していると思われる。

 実際当時のクライダーカッセ(軍服販売店)では、オーダーメイドの被服だけでは無く、様々なグレードの既製品も用意されていて、それらはローンで購入する事も可能となっていた。
 
突撃砲搭乗服の着用例
 
 被写体となっているのは、自動車化歩兵師団グロースドイチュラント:
Infanterie-Division Großdeutschlandの、突撃砲大隊で大隊長を勤めたペーター・フランツ大尉:Haupt. Peter Frantz(最終階級は少佐)である。
 1917年7月24日、ライプツィッヒに生まれたペーター・フランツは、1936年秋にアビトゥーア(大学進学資格)取得後、士官候補生として第4歩兵師団の第4砲兵連隊に入隊した。
 1938年8月に第2装甲師団の第74砲兵連隊に移動、9月には少尉に任官した。
1939年のポーランド戦後、突撃砲兵に転属し、第640突撃砲大隊の小隊長を勤めた。同大隊は、1940年4月に歩兵連隊グロースドイチュラントに編入された。西方戦役後の1940年8月1日には中尉に昇進。
 1941年のバルバロッサ作戦に従軍し、1942年4月には連隊が、自動車化歩兵師団グロースドイチュラントに改編されると共に新たに編成された、突撃砲大隊の最初の大隊長に就任した。
 1942年5月1日には大尉に昇進、同6月4日に騎士鉄十字章を授与された。
 1942年9月の終わりに3度目の負傷を負ったが、間もなく復帰し、1943年3月は第3次ハリコフ戦に大隊長として参加。この時の功績で、4月14日に樫葉章を授与されている。
 1943年6月1日には少佐に昇進し、1944年2月5日に参謀課程を履修するため部隊を離れ、8月1日に参謀部に配置された。
 終戦間際、オストプロイセンで第XXXXI装甲軍団の補給を担当していた彼は、終戦時ソ連軍から逃れ、アメリカ軍の捕虜となった。
 2001年3月11日 ケルンにて没。

 この写真では砲兵科将校用襟章と、GDのモノグラム付砲兵科大尉の肩章を付けた突撃砲搭乗服に、歩兵科将校用野戦帽を着用、襟元には騎士鉄十字章を佩用しているので、写真の撮影時期は1942年の夏から1943年春頃までの間と推定できる。ただし、彼が何故歩兵科の兵科色が付けられた野戦帽を被っているかはわからない。
 

 

戦車猟兵の対戦車自走砲搭乗服



 Pucki 氏 コレクション

戦車搭乗服と対戦車自走砲搭乗服
 
 写真左奥が戦車搭乗服で、右は対戦車自走砲搭乗服である。この対戦車自走砲搭乗服には戦車猟兵:Panzerjäger部隊の大尉の肩章が付けられており、戦車猟兵を示す”P”のモノグラムが付けられている。
 戦車猟兵は装甲科に属すので、襟章と肩章には装甲科の兵科色であるピンクの縁取りが施されており、襟章にはトーテンコプフの徽章が付けられている。
 
 
対戦車自走砲搭乗服の着用例
 
 この写真は、当資料館の官給腕時計と懐中時計のコンテンツで既に紹介しているが、対戦車自走砲搭乗服の着用例として再掲した。

 被写体となっているのは、独立第616戦車駆逐大隊(自走式)第1中隊の小隊長を務めた、ヴァルター・ラップホルツ曹長: Ofw. Walter Rappholz(1912-1991) で、同隊小隊長として黄金ドイツ十字章と騎士鉄十字章を受けている。
 
 ヴァルター・ラップホルツは、1912年6月4日、ザクセンのマクデブルクに生まれた。1935年にクデブルクで、第13対戦車大隊:Panzerabwehrabteilung 13に入隊、1938年のズテーテンラント進駐、1940年の西方戦役にも従軍した。
 その後、曹長:Oberfeldwebel として、独立第616戦車猟兵大隊:Panzerjäger-Abteilung (Sfl) 616に所属し、東部戦線に従軍し、前述のように1943年5月5日には黄金ドイツ十字章、1944年11月3日にはポーランド国境近くのサノクにおける防衛戦闘の功により、騎士鉄十字章を授与された。

 幸運にもアメリカ軍に投降したヴァルター・ラップホルツは、復員後マクデブルクに戻り、1991年9月30日にその生涯を故郷のマクデブルクで閉じた。

 写真の軍装は、自走対戦車砲搭乗服上下に装甲科用の黒のシャツ姿で、襟元には騎士鉄十字章、右胸の国家鷲章の下には黄金ドイツ十字章、左胸のリボンバーは東部戦線従軍記章、陸軍勤続章、ズテーテンラント従 軍記章。その下には、一級鉄十字章と一般突撃章、戦傷章(黒)、更に左の下襟には二級鉄十字章のリボンを佩用している。

 また、この写真は騎士鉄十字章を佩用している事から、1944年11月3日以降に撮影された物であるが、彼の肩章には部隊番号のモノグラムが付けられているのが興味深い。
 兵用肩章の部隊番号の刺繍については、戦時軍装規定で廃止されてはいるが、脱着式スリップオンタブは継続して生産されていた。これは肩章の汎用性と言う観点と、前線をはじめとする外地では、部隊番号は防諜上秘匿する必要があるが、本国の駐屯地などでは隠す必要が無く、むしろそこにいても問題の無い兵隊の証明でもある。したがって、部隊の所在地によって脱着できる部隊番号が採用されたのである。

 

突撃砲と搭乗服に関する補足
 
 突撃砲は元来、第一次世界大戦の教訓から生まれた、砲兵の新しい兵器であった。塹壕戦による膠着した戦争を避けたいドイツは、機動性の高い軍隊を作る構想を持ち、攻城戦などにおいても歩兵を近接支援できる砲兵を持つ必要性があった。それまでの砲兵は、包囲した敵を後方から砲撃していたが、敵が要塞化されていた場合などは、敵の反撃砲撃に備えて陣地転換を行う必要があったほか、戦況が急激に変化する強襲攻撃などに対する対応は難しかった。
 そこで、砲を自走装甲化し、歩兵の強襲攻撃などにも即応できるように考案されたのが、オープントップの自走砲よりも近接戦闘における防御力を高めた突撃砲である。
 
 この新しい兵器の乗員用に選ばれたのが、既に戦車及び装甲車輌用として実績があった戦車搭乗服であったが、偵察及び観測任務も与えられる突撃砲兵用としては、黒の被服は目立ちすぎるので、野戦服と同じフィールドグレーの生地で作った搭乗服が発案された。
 
 戦争の長期化に伴い、このフィールドグレーの搭乗服は、砲兵管轄の突撃砲や自走砲だけではなく、装甲科の対戦車自走砲や、装甲列車の乗員、装甲車輌乗務の装甲擲弾兵(自動車化は除く)、さらに後には一部通常歩兵部隊などにも着用された。
 兵科が異なれば徽章も異なるため、徽章の違いを含めると多種多様な搭乗服が着用されたのである。
 
   
   
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27.Jan.2018 公開
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