ここでは、当時のプライヴェート写真を楽しんでみたいと思っております。
  
一枚の写真から・プライヴェート フォトを楽しもう!その24
  
 
はじめに
 
 今回のプライヴェートフォトは、1940年の西方戦役時に撮影されたとされるもので、月刊「アーマー・モデリング」誌 2008年3月号「AFVモデラーのためのドイツ軍装資料室 第2回」で使用した物である。

 この時のキャプションは、「1940年の西方戦役で撮影された写真で、T号対戦車自走砲の乗員達が、黒の戦車搭乗服に、フィールドグレーの野戦帽を着用している。手前の車両のナンバーが6桁で、ボンネット上に対空識別標識が描かれているのも、戦争初期らしい雰囲気を醸し出している。」  と、簡単なものであったが、この写真の見所はそれだけでは無かった。

 今回は、世界的な写真コレクター滝口氏が、この写真の魅力についてご教示下さったので、紹介することにした。

 本コンテンツを制作するにあたり、解説だけでは無く、新たな写真を提供して下さった滝口氏に感謝の意を表します。

 
  
 
 

この写真について
 
 今回のプライヴェートフォトは、1940年の西方戦役時に撮影されたものである。印画紙サイズは、縦83mm横52mm。いわゆる6×9cmブローニー判のベタ焼き(密着)なので、こうしてかなり拡大しても観賞に耐える。
 
 


 
早速拡大してみると
 

 大方の人々は、ここら辺に興味があると思う。 この部分だけでも様々な物が写っているので、各分野毎の解説がなされと楽しそうである。

 手前からPKW(乗用車)を見るとボンネット上には対空標識のスワスチカが描かれており、フェンダーには師団章等が描かれている。そして、T号対戦車自走砲にも部隊マークと思われる”弓矢を持った悪魔”が確認できる他、軍装も1940年の西方戦役時の特徴的なものである。さらに視線を後方へ移すと、2両目のPKWのフェンダーにも師団章や戦術マークが描かれている。


 では、それらをもう少し詳しく見てみることとしよう。
 

   
ディティール
   
戦車兵達の軍装
 
前述のように、写真のT号対戦車自走砲の乗員達は、黒の戦車搭乗服に、フィールドグレーの野戦帽を着用している。

これはまさに1940年の西方戦役頃の特徴とも言える組合わせである。

また、右の伍長の下襟には、1939年に制定されたばかりの2級鉄十字章のリボンが付けられており、既に勲功のあった兵(つわもの)であることを示している。
装甲科用34年型野戦帽
 
 1933年にアドルフ・ヒトラー率いるN.S.が政権を摂り、ヴァイマール期の国軍が国防軍とされてから最初に導入された被服の1つに、この34年型野戦帽がある。

 写真の野戦帽には兵科を示す兵科色の山形(ソータッシェ)が付けられている。

 装甲科用に戦車搭乗服が採用されたのも1934年であったが、この時点ではパンツァーベレーが唯一の黒いヘッドギアである。狭い車内で被るには大きい上に、車内通話装置のヘッドフォンができない等の欠点があり、1941年に廃止された。
装甲科用40年型野戦帽
 
 ポーランド戦の実戦経験から、1940年3月27日に、フィールドグレーの34年・38年型野戦帽と同じ裁断の、黒いウール製野戦帽が採用された。

 同年5月の西方戦役には、まだ充分な数が供給されなかったため、多くの戦車兵はフィールドグレーの野戦帽を被っていた。

 この新型野戦帽が本格的に登場するのは1941年の対ソ戦、バルバロッサ作戦からである。
部隊マークのクローズアップ
 
この”弓矢を持った悪魔”の部隊マークに関しては、写真入手直後より気になっていたが、所属も含めて全く分らなかった。

しかし、今回滝口氏より、このマークを使用していた部隊特定に関して明確な説明を頂いた。
手前のPKW
 
緒戦では、友軍機による誤爆を避けるため、対空標識として国旗などを装着している例があるが、この車両ではボンネットにスワスチカが直描きされている。

野戦帽をあみだに被ったこの人物の野戦服には、国家鷲章のみで襟章も肩章も付いていない。

輜重兵(運転手)として徴用された軍属と思われるが、こうした兵が写っていると、この写真が後方地域で撮影されたことがわかる。
フェンダー部のクローズアップ
 
塗りつぶされているように見える対戦車大隊戦術マークの上に、××のマークが描かれている。

私は当初このマークが第6装甲師団のものと思っていたが、滝口氏より第9装甲師団であるとのご指摘を頂いた。

この手のマークは時期によって変更される事もあり、まだまだ勉強不足である事を痛感した次第である。
2輌目のPKW
 
2輌目のPKWの左前部のフェンダーには、自動車化対空砲大隊(第T大隊)のマークが、そして右フェンダーにはクライスト装甲軍集団”Panzergruppe von Kleist”を示す”K”と、第10装甲師団を示す”/”のマークが描かれている。
滝口氏コレクションより
 
この写真は滝口氏のコレクションで、上で紹介したT号対戦車自走砲と同じマークが描かれている。

この写真が第521戦車駆逐大隊の物なので、上の写真も同大隊のI号対戦車自走砲である事が確認できた。


そもそも、I号対戦車自走砲は、各装甲師団や歩兵師団所属の戦車駆逐大隊に配属されておらず、軍直轄の戦車駆逐大隊であった第521、616、643、670の各戦車駆逐大隊に配備されていた。

そして、1940年の西方戦役では、”Panzergruppe von Kleist”は第12軍に属しており、第12軍の軍レベルの部隊番号が521なので、第521戦車駆逐大隊だろうと見当がついたのだそうだ。

ただし、第521戦車駆逐大隊は、有名なイェーガーマイスターを紋章に持つ部隊なので、?となったが、滝口氏が所有している第521大隊の写真を改めて調べると、確かにこのマークのI号対戦車自走砲があったのだそうだ。

と、いうことで、上の写真のI号対戦車自走砲は第521戦車駆逐大隊と確定したのである。

情報交換の場としてのSNS
 
 このサイトも開設から18年経った。古くから見て下さっている方々はご存知かと思うが、かつては当サイトにも掲示板があり、そこで様々な情報交換が行われていた。しかし、SNSなどの普及と共に掲示板は徐々にその姿を消していった。
 SNSは掲示板より管理が楽な反面、過去の話題を見る事が難しい、故に深い情報交換がやりにくい、などの欠点がある。
したがって、有用な情報交換は別途保存をしておかないと後から見る事が難しい。そこで、今回はコンテンツにして保存する事にした。
 本コンテンツは、私のFace bookのタイムラインに、滝口氏が投稿して下さったコメントを元にまとめた物である。

   
  
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30.Oct.2016 公開
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