ここでは、戦時中のプライヴェート写真を軍装の観点から楽しんでみたいと思っております。
一枚の写真から・プライヴェート フォトを楽しもう!その15
  
 
はじめに
 
今回の「一枚の写真から」は東部戦線の3号突撃砲の写真であるが、例によってプライヴェート写真の為、撮影時期等に付いては一切の情報 が無いが、軍装から撮影時期等をある程度推測してみたいと思う。
 
本コンテンツを制作するにあたり、陸軍第45歩兵師団の一兵士のプライヴェート写真一式を快く貸して下さったPucki氏、また45歩 兵師団のマークについて御指摘を下さったLONE STAR氏と滝口彰氏、3号突撃砲の形式に付いて御指摘頂いたkimkim氏に、この場であらためて感謝の意を表します。
  

 
 
今回のお題
 
これらの写真は陸軍第45歩兵師団の兵士の100枚余のプライベート写真の束の中の2枚で、冬期迷彩を施した3号突撃砲が写されてい る。これらの写真は全て印画紙サイズが縦横60mmで、密着プリントされた物である。写真を撮影した時期に関しては1941年から1944年頃までの東部 戦線の物と思われ、被写体は兵士達の生活を写した物をはじめ、様々な陣地、塹壕、師団砲兵、野戦病院や撃破した敵戦車、鹵獲した敵の小火器類や敵兵の死体 を写した物まで多岐に亘っている。写真の多くは構図などもバッチリ決まっていて、かなり写真が好きなのか、専門的知識のある人物が撮影した物と思われる が、残念ながら詳細は一切わからない。それでは”お題の写真”について少しずつ見ていく事にしよう。
 

 
写真上:この素晴らしい写真には2両の冬期迷彩を施した雪中の3号突撃砲が写っているが、手前の車両は調子が悪いのか、車体後部に兵達 の視線が集まっている。余談ではあるが、兵士達と比べてホワイトに塗装された車両の迷彩効果が良くわかる。3号突撃砲は起動輪と戦闘室の形状からC/D型 と思われるが、兵士達は既に防寒アノラックを着用しており、この写真が撮影されたのが1942年〜1943年の冬以降である事がわかる。因みに3号突撃砲 戦車のC/D型は、1941年5月から1941年9月にかけて50両のC型と、150両のD型が生産されており、1941年に前線で失われた突撃砲105 両の補充用や新たに編制された突撃砲大隊に配備され、3両のD型は1942年初頭、北アフリカに渡っている。
 


 
写真下:上の写真に写っている2両の3号突撃砲の内、前方に停車している方のアップ。上の写真より撮影者が突撃砲に近づいている事と、 突撃砲のまわりに集まっている兵士の数が増えている事から、上の写真より後に撮影されたと判断したが、前述の様になにか突撃砲に機械的トラブルがあった様 な雰囲気を感じる。フロントフェンダーに部隊マークが描かれており、その部分のみ冬期迷彩が施されていないのが興味深いが、部隊マークは第88歩兵師団の 師団マークとは異なる様で、この突撃砲が何処の所属なのかは残念ながら私にはわからない。後でこの部隊マークはもう少し拡大した画像を掲載するので、何か 情報をお持ちの方がいらしたら是非共御教示願いたい。
 
   
ディティール
   
写真上のアップ
 
2両写っている写真の前で停車している突撃砲のアップ。フェンダー上に2名の兵士が乗っているが、右側の兵はアノラックの上着を脱いで いる様である。このアノラックは綿が入れられているので、動きにくく濡れると重くなり、更に火が付いた場合に良く燃えると言う欠点があったが、迷彩効果を 含めてこれを遥かにしのぐ良い防寒着は結局開発されなかった。フェンダー上の左側の兵は通常のジャックブーツを履いている様に見えるが、靴の裏側にびっし り雪が付いており、凍傷が心配される・・・。
写真下のアップ
 
防寒アノラックの登場が1942年からと言う事に付いては既に書いたが、これでアノラックの白では無い方がスプリンター迷彩であれば、 更に年代は1943年から1944年の冬以降と言う事になる。写真右端の兵のアノラックのズボンはフィールドグレーの単色で、更に3号突撃砲もC/D型で ある事から、1942年から1943年の冬以降とした。防寒アノラックはリバーシブルで、片面が雪中用の白になっているが、白い方は汚れが目立つので必要 に迫られていない時は着用しない様に規定されていたが、この様な一面の銀世界の中でズボンのみ白では無い方を着用しているの右端の兵が突撃砲の乗員だから であろう。これでフェンダーの部隊マークが判別出来て、その部隊が第88歩兵師団と共に戦った時期が特定できれば更に詳しい考察が出来るのだが・・・。
参考資料
資料について
師団砲兵
 
今回は参考資料と言っても、これらの写真が陸軍第45歩兵師団の物であるとした根拠になった写真を紹介する事にした。
これは師団砲兵の第98砲兵連隊に配備されていた15cmクラスの重野戦榴弾砲。
他のショットから15cmsFH 18だと思われる。
この砲は馬やトラクターでも牽引できる砲として1934年より使用され始め、陸軍砲兵の最も標準的な装備の一つであった。砲兵達が雪避 けとカモフラージュを兼ねた陣地を構築しているのが興味深い。
師団マーク
 
砲架に陸軍第45歩兵部隊の師団マークと砲兵の戦術マークが描かれている。この写真で見ると師団マークはホワイトペイントの様である が、戦術マークは色付きの様である。自走砲フンメルに搭載されていた事で有名なこの砲は、口径が149mm、砲身長4440mm、重量3623kg、最大 射程は13325mであった。砲兵達がコートに略帽、防寒トーク姿であるのが興味深い。左端の兵のコートの襟はコートと共生地の42年型なので、この写真 が撮影されたのが1942年〜1943年の冬期以降である事が判る。略帽にはまだ兵科色の山型が付いているので1943年〜1944年の冬よりは1942 年〜1943年の冬である確率の方が高いと思われる。
フィールドキッチン
 
雪の中で湯気をたてているフィールドキッチン。
シチュウー鍋の蓋が開けられているのか、大量の湯気がたっていて煙突さえ見えなくなっている。このフィールドキッチン車輪を見ればわか る様に、馬で牽引するタイプであるが、実際には調理材料や容器類を積み込むリンバーとセットになっていて、2頭〜4頭の馬で引かれていた。また本体は、 200リッターのシチュウー鍋と90リッターのコーヒー鍋を備えていて、一度に125名〜225名分の食事を調理する事が出来た。このフィールドキッチン に関してはドイツ軍 の糧食のコンテンツに関連した写真と記事を紹介してあるので、興味のある方はそちらも参照されたい。
師団マーク
 
上の写真のアップだが、フィールドキッチンの側面後部に陸軍第45歩兵師団のマークが描かれている。この第45歩兵師団の駐屯地は ヴィーンであるが、師団マークは城門をデザイン化した物の様である。また、側面の前部下方には車両の大きさを表すと思われる数字が記載されている。ちょっ と不鮮明ではっきりしないが、上からW 1300・H 215の様に書かれている様に見えるが3行目と4行目は車輪の陰で最初の数字が2と1である事しかわからない。
歯科診療所
 
雪中の馬ソリと師団の歯科診療所の横断幕が写っている。
拡大してみると馬ソリの御者はウエストベルトの左右に弾薬盒を付けているので、前線からはるか後方と言う状況では無いのかもしれない。
一連の写真の中には結構馬ソリの写真が写っているが、その大きさや形は様々なので、これらのソリは現地で徴用もしくは趙達した物が多 かったのだろう。
師団マーク
 
上の写真の横断幕のアップ。
左から丸に囲まれた赤十字、Zahnarzt:歯科医の文字、そして一番右側にはやはり丸に囲まれた陸軍第45歩兵師団のマークが描か れている。
通常の標識では積雪で埋まってしまうのでこの様な横断幕を用意したと思われる。

 
師団マーク
 
左図の左は第45歩兵師団のマークで、右が第88歩兵師団のマークである。
双方共屋根は尖塔型をしていて写真のマークとは異なる感じも無い訳ではないが、当初私はなんとなく第88歩兵師団ではないかと考えてい た。
コンテンツ公開後に掲示板でのLONE STAR氏と滝口彰氏の書き込みからやはり第45歩兵師団とした方が良いと判断し、キャプションの訂正をしてあるが、新たな情報をお持ちの方がいらしたら 是非とも御教示頂けると幸いです。
 
    
  
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15.Mar.2001 公開
17.Mar.2001 更新
19.Mar.2001 更新
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