ここでは、戦時中のプライヴェートアルバムの写真を軍装の観点から楽しんでみたいと思っております。
プライベートアルバムから その1
    
 
はじめに
 
今回は、第14歩兵師団第11歩兵連隊の一兵士のアルバムから、アルバムの主が昇進していった様子をピックアップして、その軍装を観察 してみたいと思う。
 
例によって元の写真には殆ど撮影時期・場所などのキャプションは無く、またアルバムに貼りつけられている順番も前後している為、あくま で写真から観て解る範囲の考察から解説している事をお断りしておく。
また、一枚の写真を観察した後に他の写真から新しい事実が確認される事もあり、そう言った過程も敢えて整理しないでコンテンツ化する事 で、新しい事実が判った時の感激が伝わるのでは無いかと判断したため、一部順番が前後している物もある事を付け加えておく。
 
当コンテンツを制作するにあたり、第14歩兵師団の本拠地・編成等の情報確認に協力して下さった北村裕司氏と、初期型の野戦服に関する 助言を頂いたschmidt氏に、この場で感謝の意を表します。
 
    
最も古いと思われる写真
 
この写真の服はヴァイマール共和国時代のライヒスヴェーア(国軍)の制服に1935年に採用になったヴェーアマハト(国防軍)の徽章を 付けた物である事から、撮影時期は1935年以降という事が判るが、もしかすると入隊時の記念撮影かもしれない。
下士官・兵用制帽の帽章も初期の物で、国家鷲章の羽も短く(1935年11月7日採用)、コカルデ(国章)を囲む柏の葉の形も1933 年3月14日採用のライヒスヴェーアタイプが付けられている。
肩章には”11”の刺繍が見られるが、白の兵科色から第11歩兵連隊である事を示しており、第11歩兵連隊は第14歩兵師団に所属して いた。第14歩兵師団は第IV軍管区で、本拠地はLeipzig:ライプツィッヒ、1939年の時点では、第11歩兵連隊・第53歩兵連隊・第101歩兵 連隊・第14砲兵連隊・第50砲兵連隊第1大隊等から成り、1939年にはポーランド戦、1940年には西方戦役に、更に1943年から1945年までは 東部戦線に配属されていた。
拡大してみると
 
肩章のボタンに”9”という数字が確認出来る。
これは第3大隊・第9中隊所属を意味している。
襟章はヴァイマール共和国時代のライヒスヴェーア(国軍)で採用になった襟章で、センターに入っているラインがフィールドグレーである ことが特徴である。
BEVOタイプの下士官・兵用国家鷲章
1935年タイプの国家鷲章(Hoheitsabzeichen)の初期型で、鷲の胴が細身なのが特徴。ダークグリーン地にオフホワイ トの糸で織られている。
分隊の記念撮影?
 
人数から分隊の記念撮影と思われるが、これもまた撮影日時や場所等一切わからない・・・。
ただし、33年型の古い服に混じって36年型野戦服を支給されている事と、上着とズボンの色に差が無い事から1939年以降、全員が制 帽を被っている事から1940年位迄の撮影ではないかと思われる。写真前列中央の兵長が分隊長だろう。この写真では12人写っているが、歩兵分隊の定数も 年代によって変化している。
拡大してみると
 
後列右がアルバムの主である。前の写真と比べると数年間でかなり顔つきが変わっている。この写真では袖が見えないので、階級はわからな いが、野戦服が33年型に変わっている他、制帽の国家鷲章も羽の長いタイプに変わっているのが興味深い。胸の国家鷲章は1934年採用の初期型のBEVO タイプ。
また、彼の左隣の兵の胸にはSA(突撃隊)のスポーツ章と戦傷章が付けられている他、前列右端の分隊長の胸ポケットにも戦傷章?が付け られているので、1939年のポーランド戦以降の撮影という可能性が高いかもしれない。
なお、分隊長の肩章にトレッセが巻かれているので、彼が下士官候補生である事がわかる。
前後してしまったが・・・

この写真には裏側にメモがあり、1939年9月29日ポーランド云々と書かれている。9月29日と言えば、27日にワルシャワ守 備隊が降伏、29日にはモドリン要塞陥落、ポーランド戦終了の日である!。何故か衛生兵が一緒に写っているこの写真、後列の左から4人目にアルバムの主が 写っている他、最前列に寝そべっている上等兵は上の写真の分隊長ではないか!。これで、分隊長はポーランド戦の後に兵長に昇進、更に下士官候補生となった 事が確認できた訳だ。

ここでもう一枚
 
裏側にキャプションのある写真があった。
撮影日時は1939年11月22日とある。この写真の左側でマウザーkar98kを担いでいるのが、アルバムの主であるが、少なくとも この写真で見る限り左袖に階級を表す袖章は付けられていないので、この時点ではまだ陸軍歩兵科二等兵と言う事が確認できた。
隣に上等兵が写っているが、2名共1933年型の編上3バックルブーツを履いているのが印象的だ。また、2名の持っているマウザー kar98kの銃床が後の物の様にストックをカバーするタイプでは無く、まだ鉄板をビス止めしたタイプであるのが興味深い。実際には銃床がストックをカ バーするタイプが実戦配備されるのは1941年末から1942年頃からの様である。
ドイツ軍では戦争が始まるとMG34やkar98kにも殆ど毎年マイナーチェンジを行っているので、鮮明な写真を観る時にはこれらの銃 器も年代特定の手掛りになる事もある。第14歩兵師団は南方軍集団、第10軍、第16軍団麾下で、ポーランド戦に参加した後、10月にはB軍集団の第4軍 の予備に、更に11月から12月迄は第6軍の16軍団に配属された。
西方戦役
 
この写真は、兵士達の服装とバックの看板から1940年の西方戦役の時の撮影と思われるが、左から3人目のアルバムの主は、またしても 左袖が写っていない・・・ので階級は不明。
因みに、この写真の両脇の兵士は上から3番目の記念撮影でも両脇に写っている。右から2番目に立っているのは新しい分隊長か?他の兵と 異なり双眼鏡ケースと書類ケース(マップケース)をぶら下げている。
全員野戦服は36年型を着用しているが、胸の国家鷲章はダークグリーン地の1935年型に変わっているのが興味深い。また左端の兵士と 分隊長は野戦服の第2ボタンから懐中電灯を下げている。
上等兵
 
この写真も残念ながら撮影データが一切無いが、仮橋の欄干にもたれているアルバムの主は何時の間にか上等兵に昇進している。アルバムを 何度も見直したが一等兵の袖章を確認出来る写真はとうとう見つける事が出来なかった。この写真の撮影時に彼が第14歩兵師団にいたかどうかはわからない が、第14歩兵師団はB軍集団、第6軍、11軍団麾下、西方戦役に従軍、6月にはOKH(陸軍総司令部)の予備としてFlandern:フランドル(ベル ギー・オランダ・フランスに属する北海沿岸地方)に配属されていた。
東部戦線
 
この写真は、バックの建物の看板でロシアである事がわかる。街並も破壊されておらず、軍装も初期のままである事等から1941年の撮影 と仮定してみる事にした。第14歩兵師団は1940年10月15日から1941年3月3日の間に第14自動車化歩兵師団に改変され、1941年6月迄はド イツ本国に駐屯していた。
バルバロッサ作戦開始後の7月に中央軍集団、第3装甲軍、第39軍団麾下、東部戦線に投入され、Bialystok, Minsk戦に、更に8月には57軍団、9月には第9装甲軍、8軍団に配属されSmolensk戦に従軍している。10月から12月には再び第3装甲軍に 移動し、56軍団の麾下で、Vyasma, Klin戦に従軍しているが、写真の雰囲気からすると MinskからSmolenskあたりかもしれない。写真右がアルバムの主だが、この写真でも階級は上等兵で、左に写っている兵士は伍長である。主の方は 1939年迄の長いジャックブーツを履いているが、伍長殿の方は、なんとチェック柄のスリッパを履いている!。ウエストベルトをしていない事から、ある程 度後方か、戦闘の合間なのだろうが、伍長殿は足の具合が悪いのだろうか?。
またしても・・・
 
キャプションが一切無い写真だが、実は上の写真の隣に貼られていた写真である。
この写真も肝心の左袖が写っていないが、左に立っているアルバムの主は1941年型の野戦服に兵科色の付いていない略帽、更に1939 年以降の短いジャックブーツを履いている。
更に右側の通信兵は1942年型野線服を着用している事から、この写真の撮影時期は1942年の後半以降と考えるのが妥当かと思われ る。従って、アルバムの主は1942年の前半の段階で、伍長にはなっていなかった事が確認できた訳だ。(伍長になると、下士官を示すトレッセが襟の縁に縫 い付けられるので、袖章が写っていなくとも区別が出来る。)この写真が貼られているページよりかなり前のページに1940年とメモのある写真があり、同じ ページに兵長に昇進した主の写真が貼られており、更に同じページに1943年6月から支給された規格帽を被った写真が貼られていたりしているので、まるで パズルでもしている気分だ・・・(苦笑)。
    
   
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28.Aug.2000 公開
29.Aug.2000 更新
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