ここでは、「英雄追悼慰霊の日」と「国防軍の日」の記念切手を紹介します。
  
  
 
はじめに
 
 今回は、「英雄追悼慰霊の日」および「国防軍の日」の記念切手を紹介する。

○ 英雄追悼慰霊の日:Heldengedenkentagについて
 
 第一次世界大戦終結後、ヴァイマール共和国時代に、その戦没者慰霊の意を込めた、「国民哀悼の日」を制定しようとする動きがあったが、政治的な不安定さが要因となり、実現には至らなかっ た。
 1933に政権を獲得したNSは、1934に制定した「国家祝日に関する法律」の中で、この「国民哀悼の日」の性格を、国家の為に戦死した英霊を単に 哀悼するのでは無く、誇りある死を称え、英雄として賛美するものに変更し、316日を「Heldengedenkentag : 英雄追悼慰霊の日」として制定した。
 この日の行事は、NSと国防軍が主催し、開戦後は二次戦の戦死者の追悼も合わせて行われた。

 
○ 国防軍の日:Tag der Wehrmacht
について

 1935年3月16日に、ヒトラーは国民的な怨嗟の的であった、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、再軍備を宣言した。
 国防軍再建法が公布され、一般徴兵制が再導入:Wiedereinführung der allgemeinen Wehrpflichtehrmachtされたこの日を、「英雄追悼慰霊の日」および、「国防軍の日」としたのである。


 1936
年の式典では、第一次世界大戦で不敗を誇ったアウグスト・フォン・マッケンゼン陸軍元帥が、ヒトラー総統と共に、ベルリンのウンター・デン・リンデン通りにある無名戦士の廟、ノイエ・ヴァッヘ前で国防軍三軍部隊の分列行進を閲兵し、その後ノイエ・ヴァッヘに献花を行った。

 本コンテンツを制作するにあたり、貴重なコレクションを取材させて下さった08/15氏に、この場であらためて感謝の意を表します。

 

 

1935年 英雄追悼慰霊の日 記念切手
   
 
 
 
額面:6ペニヒと12ペニヒの切手
 
 1935年3月15日に、第一次世界大戦戦没者を追悼慰霊する”英雄追悼慰霊の日の記念切手が発行された。

 額面は6ペニヒと12ペニヒの2種類で、ドイツが第一次世界大戦に敗戦後、初めて戦争をテーマとした切手となった。
 
 切手発売の翌日に公布された「国防軍再建法」により、
ヴェルサイユ条約で禁止されていた空軍が創設されたほか、国軍の総称もライヒスヴェーア:Reichswehrからヴェーアマハト:Wehrmachtに、そして7個師団10万人だった陸軍も1939年までに38個師団に増強すると宣言された。
 

趣味としての切手収集
 
 ヒトラーは、国民に対して趣味として切手収集を薦めていた。こうした事から、当時は数多くの記念切手や記念葉書が発行されたほか、収集用に郵便局で記念スタンプも押されていた。
 

   
   

1942年 英雄追悼慰霊の日 記念切手
 

額面:12ペニヒ、付加金38ペニヒの切手
 
 この切手の右上部には、”Heldengedenktag 1942:1942年 英雄追悼慰霊の日”と印字されている。

 1942年3月10日発行のこの切手の図柄は、戦死者の頭部とスチールヘルメットとなっている。
 
 額面(郵便料金)は12ペニヒであるが、付加金が38ペニヒとなっており、売価は50ペニヒである。
 この付加金は、ドイツの切手にはよくみかける物で、福祉事業などに寄付する慈善切手として知られているが、この時期の付加金の使途は軍事費であったと思われる。

 徽英雄追悼慰霊の日は、国防軍の日でもあり、戦争が激化して国民の誰しもが、戦死者を身近に感じる様になった1943年からは、国防軍の日の切手が発行された。
 


 
1943年 国防軍の日 記念切手 ( 1943年3月21日発行)

 
 

 額面:3ペニヒ 付加金:2ペニヒ
 図柄
Uボート VII A型と炎上する敵商船
 

 額面:4ペニヒ 付加金:3ペニヒ
 図柄武装SSのS.M.G.34班
 

 額面:5ペニヒ 付加金:4ペニヒ
 図柄:疾走するオートバイ兵
 
     

 額面:6ペニヒ 付加金:9ペニヒ
 図柄:天幕の中で活動中の通信兵
 

 額面:8ペニヒ 付加金:7ペニヒ
 図柄工兵の架橋作業
 

 額面:12ペニヒ 付加金:8ペニヒ
 図柄敵陣を掃討中の歩兵部隊
 
     

 額面:15ペニヒ 付加金:10ペニヒ
 図柄21cm Mörser18重榴弾砲の砲撃
 

 額面:20ペニヒ 付加金:14ペニヒ
 図柄:射撃姿勢の20mmFLAK30
 

 額面:25ペニヒ 付加金:15ペニヒ
 図柄:ユンカースJu87による急降下爆撃
 
     

 額面:30ペニヒ 付加金:30ペニヒ
 図柄:落下傘降下中の降下猟兵
 

 額面:40ペニヒ 付加金40:ペニヒ
 図柄:前進するIV号戦車
 

 額面:50ペニヒ 付加金:50ペニヒ
 図柄高速艇S 14-17
 
 
1944年 国防軍の日 記念切手 ( 1944年3月11日発行)


     

 額面:3ペニヒ 付加金:2ペニヒ
 図柄:強襲攻撃中の突撃ボート
 

 額面:4ペニヒ 付加金:3ペニヒ
 図柄:不整地走行中のケッテンクラート
 

 額面:5ペニヒ 付加金:3ペニヒ
 図柄落下傘降下中の降下猟兵
 
     

 額面:6ペニヒ 付加金:4ペニヒ
 図柄:潜望鏡を覗くUボート艦長
 

 額面:8ペニヒ 付加金:4ペニヒ
 図柄武装SSの重迫撃砲班
 

 額面:10ペニヒ 付加金:5ペニヒ
 図柄:防空隊によるサーチライト照射
 
     

 額面:12ペニヒ 付加金:6ペニヒ
 図柄:射撃中のS.M.G.34班
 

 額面:15ペニヒ 付加金:10ペニヒ
 図柄:前進中のIII号突撃砲
 

 額面:16ペニヒ 付加金:10ペニヒ
 図柄:快速艇S 26-29
 
     

 額面:20ペニヒ 付加金:10ペニヒ
 図柄:偵察飛行中のアラド Ar-196
 

 額面:24ペニヒ 付加金:10ペニヒ
 図柄:列車砲の砲撃
 

 額面:25ペニヒ 付加金:15ペニヒ
 図柄:ネーベルヴェルファーの斉射
 
     

 額面:30ペニヒ 付加金:20ペニヒ
 図柄:山岳猟兵
 
   

切手の国号について
 
 1943年の「国防軍の日」記念切手の国号は”Deutsches Reich:ドイツ国”であるが、1944年の物では”Großdeutsches Reich:大ドイツ国”となっている。
 オーストリア併合後、民間などではこの”Großdeutsches Reich:大ドイツ国”の呼称が使われ始めたが、正式な国号変更宣言は出されていない。
 
ただし、1943年6月24日に、総統官邸長官であった、ハンス・ハインリヒ・ラマースが、初めて公用文書(Erlass RK 7669 E)にこの国号を使用しており、同年10月24日以降は切手にも”Großdeutsches Reich:大ドイツ国”の国号が印刷されるようになった。
 



国防軍の日のスタンプが押された葉書
 


 

 08/15氏 コレクション

国防軍の日のスタンプ
 
 当時は様々な記念日のスタンプも作られていたが、このスタンプには国防軍の日:Tag der Wehrmachtの文字が刻まれている。上方にはザクセン州の都市ケムニッツ:CHEMNITZの地名が彫られていおり、消印の日付は1939年3月19日である。
 因みに「国防軍の日」は3月15日であるが、1939年の式典は3月18日と19日に行われている。
 
 スタンプが押された切手はヒンデンブルク・メダル図案切手と呼ばれる物で、ヴァイマール共和国当時の大統領であったヒンデンブルクをコインのデザインとした図柄の通常の郵便切手である。
 1932年に発行されたこの切手は1945年まで使用され、画像の1ペニヒと5ペニヒ以外に、4、12、15、25、40、50ペニヒの切手があった他、1933年には3、4、6、8、10、12、15、20、30、40、50、60、80、100ペニヒの切手も発行されていた。
 これらの切手は額面毎に刷色を変えて、色でも区別できるようになっており、このシステムは後に発行されたヒトラー総統の肖像切手にも踏襲されていた。

 第一次世界大戦後に誕生したヴァイマール共和国最後の大統領となったヒンデンブルクの肖像が印刷された切手に、半年後に第二次世界大戦に突入する国防軍の再建を記念する日のスタンプが押されている訳である。

 画像下は、この葉書の裏面である。
”我等が国防軍:Unsere Wehrmacht”シリーズの中の1枚で、”機関銃と共に進む:Mit M.-G. beim Vorgehen”のタイトルが付けられている。



 08/15氏 コレクション

 
国防軍の日の切手が貼られた葉書
 



 
 
国防軍の日の切手が貼られた葉書
 
 1943年4月にフランクフルト・アム・オーダーからベルリンに出されたこの葉書には、1943年の「国防軍の日」記念切手の額面3ペニヒの物が2枚貼られている。このシリーズには額面6ペニヒの物もあるのだが、額面3ペニヒの付加金は2ペニヒ、6ペニヒの切手の付加金は9ペニヒなので、3ペニヒの切手を2枚貼った方が付加金は5ペニヒ安くなる。
 1943年発行の「国防軍の日」記念切手では、額面6ペニヒの切手以外は、付加金は額面と同じか、若干安くなっているのだが、この6ペニヒだけは付加金の方が高く設定されている。

 6ペニヒは市外用葉書の料金で、国には売れ筋の切手の付加金を高めに設定することで、多くの付加金を集めたいとの目論見があったと思われるが、付加金付き切手を使う事で、国に協力しようと思った人々の中にも、額面よりも高い付加金に抵抗感があったのかもしれない。

 これらの切手の売れ行きは分らないが、1944年の「国防軍の日」記念切手では、全ての種類で付加金は額面の7割から半額程度に抑えられている。

 1942年に発行された「英雄追悼慰霊の日」記念切手は、市外用封書料金12ペニヒに対して38ペニヒもの付加金が設定されている。連戦連勝の国防軍が東部戦線で初めて躓きを見せたため、おそらくこの切手は売れたのだろう。そこで、翌1943年の「国防軍の日」の記念切手では付加金を高めに設定したが、思った程売れなかったので、翌1944年の付加金は抑え目に設定したのかもしれない。

 画像左は、葉書の裏面でる。
1942年の”ドイツ警察の日:Tag der Deutschen Polizei
”記念の葉書で、”前線の警察:Die Polizei im Fronteinsatz”とタイトルが付けられたイラストが描かれている。
 
国防軍の日の切手が貼られた書留郵便

 



 08/15氏 コレクション


国防軍の日の切手が貼られた書留郵便
 
 
上下の画像は、プラハの陸軍司令部第III部 IIb課:(IIb)Prag III 給与支払本部:Kommandantur Gebührnisstelleのケーラー主計中尉:Oberzahlmeister Köhler送られた書留郵便である。

 上の封筒の場合は、郵便料金48ペニヒに対して、27ペニヒ、下の封筒では、郵便料金130ペニヒに対して75ペニヒの付加金を支払っている。

 因みに郵便料金の内30ペニヒが書留料金だったので、上の封筒は市内から、下の物は遠隔地からの速達、かつ重量の重い料金が加算されていたのかもしれない。
 





 08/15氏 コレクション

 
蒐集用?




 
蒐集用?
 
 前述のように、ヒトラーは、国民に対して趣味として切手収集を薦めていたので、記念切手を葉書に貼り、記念スタンプを押した物もあった。
 この葉書は”Unser Wehrmacht:我等が国防軍”シリーズの中の一枚で、”Nachrichten-Abteilung:通信大隊”とタイトルが付けられた物に、
1943
年の「国防軍の日」記念切手の通信部隊の切手を貼った物であるが、画像左のような、ちょっと不可解なスタンプが押されている。
 スタンプの上側の”WIESBADEN:ヴィースバーデン”は、ヘッセン州の州都で、ヨーロッパで最も古くからある温泉の街としても知られている。中段には1943年5月21日の日付、そして下側の文字は”
Waffenstillstandskommission:停戦委員会”とある。
 この停戦委員会は、1940~1944年の間、フランスに課した停戦条約(特に軍事に関する)が順守されているかを監視するために設けられた行政機関で、ヴィースバーデンがその所在地であったが、このスタンプが押されている理由は不明。
 一方、葉書の右側のスタンプは、元々の所有者が押したと思われる”H.W.Kossmann”という氏名の下に”Neuwied a/Rh.:ライン川沿いのノイヴィート”の地名が押されている。ノイヴィートは、ヴィースバーデンの北西にある街である。



 

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24.May.2018 公開
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