はじめに ここでは、戦傷章:Das VERWUNDETENABZEICHENの展示をしています。 ”Das Verwund-Abzeichen”は、直訳すると負傷章となるが、本コンテンツでは戦傷章とします。 今回のコンテンツを制作するにあたり、貴重な章記資料を貸して下さった滝口氏と、戦傷章の画像の一部を提供して下さった08/15氏、クラウゼの山下氏、章記の訳及 び、ドイツ軍の野戦病院の解説に助言を下さった、あるめ氏、おでっさ氏、きたむら 氏、ルクソール氏の各位に感謝の意を表します。 |
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戦傷章1935 戦傷章1935は、スペイン内乱に参加して負傷した兵士の為に1935 年5月22日、ヒトラーによって制定された名誉章である。 この章は、第一次世界大戦時の戦傷章(1918年3月3日制定) のデザインをほぼ踏襲しており、 ヘルメットの中央にスワスチカを追加した事が識別点となっている。 この戦傷章1935は、スペイン内乱で黒章が182個、銀章が1個授与されている。 |
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戦傷章1935銀章と紙箱
画像上左から、戦傷章1935黒章表面、同裏面、戦傷章1935銀章表面、同裏面である。 この画像のメダルはプレス製で、繊細な作りとなっている。 画像左は、戦傷章1935銀章と、その紙箱である。 箱の蓋の裏面には、LDO(ドイツ勲章生産者共同組合)のロゴマークがプリントされている。 |
戦傷章1935黒
章
画像左の戦傷章1935黒章は、私の友人の父Chrstian- karl-Manfred氏が、東部戦線に従軍中に授章したメダル。 本来は戦傷章1939のメダルを授与されるところであるが、このメダルが授与時に貰った物か、後で所有証明書を提示して購入したも のかは不明。 1939年に、新しい戦傷章が制定された以降、在庫の戦傷章1935は、戦傷章1939と区別される事なく、授与されたと言われている。 |
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戦傷章1935と1939 写真左が1935 年制定の戦傷章黒章の鋳造タイプで、右は1939年制定の戦傷章黒章のプレスタ イプを示す。 戦傷章1935と1939のデザイン上の相違点は、戦傷章1935のヘルメットが、まだ第一次世界大戦期のM16/18で、葉環の模様に沿って輪郭に凹凸 があるのに対し、戦傷章1939ではヘルメットはM35に変更され、葉環が簡略化され、輪郭の凹凸もすっきりとした物に変更された。 戦傷章1939のプレスタイプには真鍮製と鉄製があり、この画像は真鍮製のメダルであ る。 また、戦傷章1939の銀と金章は鋳造製で、細かい作りはメーカー毎に異なる為、様々な バリエーションが 存在する。 |
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戦傷章1939 1939年9月1日、第二次世界大戦勃発と同時に復活された戦傷章で、前述のように若干デザインが変更された。 戦傷章は、戦傷に対して与えられる記章で、金・銀・黒の3等級があり、金章は戦傷5回以上、または両手もしくは両足を無くした者、あるいは両目を失明した者に与えられた。 銀章は戦傷3回か4回、片手もしくは片足を無くした者、あるいは片目の視力か聴力を無くした者に、黒章は、戦傷1回か2回の者に与えられた。 なお、戦傷章は戦闘における負傷の他に凍傷に対しても授与され、また、戦争が激化した 1943年3月以降は、軍務に従事していた民間人や、爆撃による市民の負傷者に対しても授与される様になった。 また、この記章のバリエーションとしては、1944年のヒトラー暗殺未遂事件の負傷者に対 してのみ授与された物が制定されており、これには「20 JULI 1944」の文字がレリーフされていた。 |
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写真左は、鋼板プレス成形の戦傷章1939黒章である。 いわゆる官給タイプで、通常紙袋に入れられて授与された。 戦傷章黒章の授章基準は、上記のように戦傷1回か2回の者に与えられた。 また、凍傷も戦傷とカウントされたため、1941~1942年の東部戦線における冬期戦では、東部戦線従軍記章と共に、大量の戦傷章が授与された。 |
これは、真鍮板プレス成形の戦傷章1939黒章である。 この戦傷章のサイズは、縦44.4mm、幅36.2mm、厚3.6mm メダルは0.2mm厚の真鍮板で、ピンは直径1.2mmの真鍮線で作られており、全面艶消しの黒で塗装されている。 |
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LDOコード刻印
この戦傷章の裏面、ヘルメットのネックガード部には”L/11”の刻印が打刻されている。 これは、Lüdenscheid のWilhelm Deumer社のLDOコードで、この戦傷章が、私費購入品であった事を示している。 L.D.O.”Leistungs Gemeinschaft der Deutscher Ordenshersteller”の略で、全ての勲章・戦功章・名誉章の製造に関 する管理を目的とした自治組織で、メダル類の寸法、材質、製法などを管理すると同時に、製法などを検討し、各メーカーに情報共有を図る役割も果たしてい た。 |
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戦傷章1939
銀章
写真左が戦傷章1939銀章である。 亜鉛合金の鋳造製で、典型的な官給タイプである。 銀章の授章基準は戦傷3回か4回、戦傷の回数にかかわらず、片手もしくは片足を無くした者、あるいは片目の視力か聴力を無くした者に与えられた。 |
取材協力:クラウゼ
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これも、戦傷章1939銀章であるが、裏面にメーカーロゴの入った、私費購入品である。 このB.S.W.の刻印は、WienのBrüder Schneider社の物。 上の画像の戦傷章と比べて、取付ピンの作りが異なる他、ヘルメットのネックガードの折り返し線や、縁取りが強く表現されている。 |
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写真左が戦傷章1939金章である。 金章の授章基準 は戦傷5回以上、または戦傷1回でも、両手もしくは両足を無くした者、あるいは両目を失明した者に与えられた。 |
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写真左が、戦傷章1939金章のケースと、ケースに入った状態の戦傷章1939金章。 戦傷章銀章も当初は金章同様のケースに入れて授与されたが、金章も銀章も戦争が激化して からは、パッケージの簡略化が計られ、紙袋に入れられて授与される様になったと言われている。 実際LDOでも加入業者向けに、LDOロゴをプリントした、共通紙袋を生産供給していた。 |
写真左も戦傷章1939金章である。 この金章の裏面には”30”の刻印が打刻されている。 これは、”Hauptmünzamt Wien:ヴィーン(ウィーン)の中央造幣局”製を示す刻印で、”29”だとベルリンの中央造幣局製となる。 |
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戦傷章は、通常戦功章よりも下位の記章とみなされ、写真の様に一級鉄十字章等の戦功章よりも下に付 けられた。 画像では歩兵突撃章の脇に付けられているが、鉄十字章が無い場合には、歩兵突撃章を一級 鉄十字章の位置に付け、その下に戦傷章を付ける事が多かった。 ただし戦傷章のみ授章している場合には、左胸のポケットの中央に付ける事が多く、他に授章している記章類によって、佩用位置が変えられた。 |
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これはスタジオで撮られたプライヴェート写真だが、戦傷章金章を一級鉄十字章の上に付けている珍しい例。 通常は一級鉄十字章と戦傷章の位置は逆である。もしかすると戦傷章金章の授章記念撮影なのかもしれない。 それにしてもこの写真の主は左胸に白兵戦章・戦傷章金章・一級鉄十字章に歩兵突撃章、更 に第二ボタンのホールには東部戦線従軍記章と二級鉄十字章のリボンと、かなりの功労者である。 |
今回は滝口氏のコレクションの中から、5枚の章記を紹介します。上から3枚は同一人物に授与された物で時期や階級にも注意すると興味深いドキュメントです。 |
滝口氏コレクション
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写真左:戦傷章黒章の章記。 所有証明書 Schtz.Wilhelm Jost {Name,Dienstgrad} 6./J.R.445 {Truppenteil,Dienststelle} ヴィルヘルム・ヨースト二等兵 陸軍第134歩兵師団・第445歩兵連隊・第II大隊・第6中隊所属 授章理由 1941年12月31日に被りたる maligen Verwundung oder Beschädigung 凍傷 Verwundetenabzeichen in Schwarz 戦傷章・黒章 verliehen worden. Doebeln,den 12.Juni 1942. Inf.Ers.Btl..475 陸軍第475歩兵補充大隊 Hauptmann u/ Btl.-Kdr. 大隊長・大尉 |
滝口氏コレクション
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これも同じくヴィルヘルム・ヨーストに授与された戦傷章銀章の章記である。 書式は上の物と同じで Den Jost,Wilhelm Gefr. {Name,Dienstgrad} 10./Gren.Regt.445 {Truppenteil,Dienststelle} ist auf Grund seiner am 20.7.42 erlittenen ein maligen Verwundung- Beschädigung das Verwundetenabzeichen in Silber verliehen worden. Loetzen,den 27.9. 1943 Oberstabsarzt und Chefart. この章記ではJostの階級は上等兵になっており、2階級昇進している。 また、所属部隊が10./Gren.Regt.445となっているが、黒章の章記の証明者が補充大隊になっている事から、一度本国送還になって、師団に復帰した時に配置変えになったのかもしれない。 今回の章記ではBeschädigungのみが消されており、1942年7月20日に被った戦傷により授章した事がわかる。 また、負傷の回数が”ein maligen”となっており、トータルの負傷回数では無いのも興味深い。 Verwundetenabzeichenin Silberは、戦傷章・銀章の意。 授章はレッツェン(病院の所在地)において1943年9月27日で、今回の証明者は軍医 少佐・軍医長がしている。 |
滝口氏コレクション
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これも同じくヴィルヘルム・ヨーストに授与された戦傷章金章の章記である。 上の2枚と字体が変わっているのは年代による書式の変化で、戦傷章のランクとは関係が無い。 DEM Uffz. Wilhelm Jost 10./Gren.Regt. 445 IST AUF GRUND SEINER AM 20.7.1943 ERLITTENEN einMALIGEN VERWUNDUNG- BESCHÄDIGUNG DAS VERWUNDETENABZEICHEN IN Gold VERLIHEN WORDEN. Reservelazarett Heiligenstadt/Eichsfeld, DEN 5.12.1944 Oberstabsarzt und Chefarzt この章記ではヨーストの階級が伍長になっている。 所属部隊は上と同じで、陸軍第134歩兵師団・第445擲弾兵連隊・第III大隊・第 10中隊所属。 1943年7月20日に被った負傷に対して、1944年の12月5日付けで金章が授与さ れている。 ハイリゲンシュタット/アイヒスフェルトの予備病院において Oberstabsarzt und Chefarzt 章記からは具体的な負傷の程度などは知る事は出来ないが、負傷してから授章するまでに1年以上経っているのは、入院等が必要だった場合には、回復してから授章する事になっていたのかもしれない。 |
滝口氏コレクション
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これは第509独立重戦車大隊のティーガー戦車クルーPeter Matthiesの章記。 DEM Gefr.Peter Matthies 2./schw.Pz. 509 IST AUF GRUND SEINER AM 23.Februar.1944 ERLITTENEN einMALIGEN VERWUNDUNG- BESCHÄDIGUNG DAS VERWUNDETENABZEICHEN IN schwarz VERLIHEN WORDEN. Liebenthar, DEN 8.März.1944 Oberstabsarzt u. Chefarzt 所有証明書 ペーター・マティース上等兵 第509独立重戦車大隊・第2中隊所属 サインは軍医少佐・軍医長の物。 二級鉄十字章のコンテンツにも書いた様に、第509独立重戦車大隊(Gierka少佐指 揮)は2月10日頃からScheptowkaとJampolの間の防衛戦 (ちょうどジトミールとタルノポルの中間くらい)に参加しており、Matthies上等兵が所属する第2中隊が、2月18日にSasslaw を3台の戦車で攻撃し、3台の敵戦車を破壊したとある。上等兵がこの戦闘に参加したかとうかは分からないが、その後、23日の第六次戦闘には参加、そこで 負傷している。この戦闘では16輌のティーガーでSasslawを攻撃し、13輌の敵戦車を破壊(ティーガー全損1輌)して占領した。 |
滝口氏コレクション
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この章記は全てタイプライターで制作されて物で、この様な例は戦争末期には散見された。 おそらく書式の在庫が足りなくてこの様な章記を授与せざるをえなかったのだと思われる。 Dem Obergefreiten Oskar Kruegel 4./A.R.196 ist auf Grund seiner am 27.Janur 1944 erlittenen einmaligen verwundung oder Besehädigung das Verwundetenabzeichen in Schwarz verliehen worden. Abt.Gef.Std.,den 2.Mai 1944. Major und Abteilungs-Kommandeur. 第96歩兵師団・第196砲兵連隊・第I大隊・第4中隊所属のオスカー・クリューゲル兵長に授与された戦傷章・黒章の章記。 1944年1月27日に被った負傷に対して、1944年5月2日に大隊前線本部において 授与されている。 証明者:大隊長・少佐 一番上の章記と、この章記は大隊指揮官名でサインされているので、負傷の程度が割りと軽かったのかもしれない。 他の3枚の章記では占領地若しくはドイツ本国の病院の軍医長がサインをしており、8週間 以内に回復が見込めない重傷を負った事がわかる。 |
ドイツ軍の野戦病院について 今回のコンテンツに出てくる”Reservelazarett”:予備病院は徴兵単位としての軍管区(占領地もしくはドイツ本国の駐屯地)にあり、8週間以内に回復が見込めない重傷患者を収容する陸軍病院(Heimatlazarett)が 一杯で既に患者を収容出来ない場合の予備病院にあたり、この病院から退院した兵は通常いったん補充大隊等ヘ戻され、直接野戦部隊に復帰する訳ではなかっ た。 したがって、必ずしも同一部隊に復帰するとは限らず、再教育・訓練の後に新たな部隊ヘ配属される事もあった。 退院と言っても場合によっては野戦部隊に復帰が不可能な場合もあり、その様な場合は教育 部隊の教官になったり、退役する事もあった。 開戦当初、ドイツの野戦各師団は野戦病院を持っていたが、戦争が激化して師団数が急激に増えると各師団が病院を持つ事は出来なくなり、軍:Armee(いくつかの師団の集合体)が野戦病院を所轄するようになった。 前線の包帯所では応急手当しか出来なかった為、手術等の必要な場合は後方の軍病院 (Kriegslazarett)等に後送されたが、すぐには移送出来ない場合や数日で回復可能な負傷者は野戦病院(Feldlazarett)で回復を待った。 8週間以内に回復が出来ると判断された患者は、軍司令部などの管理する” Kriegslazarett”で、4週間以内に回復すると思われる軽傷者は”LeichtkrankenKriegslazarett”に収容された。 8週間以内に回復した兵は通常原隊に復帰する事になっていた。 |
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