ここでは、ルートヴィッヒ・ブルケ陸軍歩兵科上級曹長の勤務服に付いてきたプライベート写真を紹介しま す。
   
はじめに

前回に引き続きルートヴィッヒ・ブルケ陸軍歩兵科上級曹長の勤務服に付いていたプライベート写真を紹介します。 今回紹介する写真も、原画にはキャプション等が一切無い為、写真の順番や解説文に誤りがあるかもしれません。
なお、山岳帽と規格帽に関する記述に関して助言を頂いたシュミットさんに、この場で感謝の意を表します。

   
野営風景
 
この写真は「国防軍のツェルトバーン」のコンテンツで既に紹介しているが、絵葉書になっている印画紙に焼き付けされている。
ツェルトバーンのコンテンツで既に説明したように、単色のツェルトバーンとスプリンター迷彩のツェルトバーンが混在しているので、戦前の野営訓練中のス ナップと判断してみた。
ライトグレーの単色のツェルトバーンは1931年から、スプリンターパターンのツェルトバーンは翌 1932年から生産され、国防軍に於いては1935年頃迄には殆どスプリンターパターンのツェルトバーンが行き渡ったと思われる。)
こうして見ると、スプリンターパターンの迷彩効果も決して悪くない。 また、テントの上に被せたヘルメットやツェルトバーンを組み合わせて作った大型テント、手前に 叉銃させたKar98や並べて置かれたヘルメットにも注目して欲しい。
 
細かい部分は「国防軍のツェルトバー ン」のコンテンツを参照。

なお、ドイツ軍では兵士の士気を維持する上で、郵便は重要視されており、当時はこの様に プライベート写真を絵はがきにして、家族等に送る事が流行っていた。 ただし、勿論軍事機 密に属する写真は検閲に引っかかったので、この場合はスプリンター迷彩の ツェルトバーンが軍事機密には属さなかった事を示しているのかもしれない。(この葉書は未使用なので詳細は分からない)

ワインを飲む下士官3人
 
ここでいきなり写真が戦争中の物になる。
相変わらず撮影日時・場所等の情報が一切無いので確定的な事は言えないが、フランス戦あたりの写真では無いかと思う。
何故戦争中の写真と断定したかと言えば、右端にいるブルケの肩章が(階級は伍長)ダークグリーンでは無く、服と共生地のフィールドグレーの物を着用してい る事を根拠とした。
服自体はグリーンカラーの36年型だが、何らかの理由で肩章のみ40年型の物を付けていると思われる。
 
因みに手元の資料で第9歩兵師団の戦歴を見ると、1939年のポーランド戦では、Ritter von Leep:リッター・フォン・レープ上級大将麾下のC軍集団、Witzleben:ヴィッツレーベン大将指揮の第一軍に、翌1940年のフランス戦では von Rundstedt:フォン・ルントシュテット上級大将麾下のA軍集団、List:リスト大将指揮の第十二軍に属していた。
この間の師団長はともにvon Apell:フォン・アペル中将であった。
更に1941年の独ソ開戦時には、von Rundstedt:フォン・ルントシュテット元帥麾下の南方軍集団、von Reichenau:フォン・ライヒェナウ元帥指揮下の第6軍、Koch:コッホ大将の第44軍団に、 第297歩兵師団と共に属していた。
この時の師団長はFreiherr von Schleinitz:フライヘア・フォン・シュライニッツ少将であった。
もう少し軍装を見てみると・・・
 
まずは左の下士官だが、36年型野戦服に35年または40年型スチールヘルメットを被り、第二ボタンから懐中電灯を下げている他、双眼鏡ケース、ガスマス クケースもぶら下げている。
中央の下士官は、服装は左の下士官とほぼ同じだが、乗馬ズボンにやけに高級な乗馬ブーツを履いている。 また、ウエストベルトはベルトフックに掛けられており、右腰に書類ケース(マップケース)を下げている様だ。
余談だが、ラッパ飲みしているボトルの中身がワインだとすると、典型的なドイツワインのボトルの形では無い事も結構気になるところだ(笑)。
写真の右端はブルケだが、胸には”体力検定章”が付けられている(ブルケは1939年の5月に体力検定章を貰っている。)他、陸軍勤続章と思われるリボン も付けている。
また、P08用と思われる大型拳銃用ホルスターと懐中電灯をウエストベルトに付けているのも興味深い。
それにしても、何故かこの3人のスチールヘルメットにはデカールが貼られていない様だ・・・。
1940年から1941年の冬?
 
雪景色だから冬である事だけは異論の無いところではあると思うが(笑)、問題は何年の冬か?と言う事で、私は1940年から1941年の冬と判断した。
根拠としては、中央のブルケの右後方の下士官の襟がダークグリーンでは無く、野戦服と共生地の40年型以降の野戦服に見える事と、スチールヘルメットも他 の二人より色の濃いブラックグリーンの塗装の40年型に見える事。これで少なくとも1940年以降と判断した。
それでは何故1941年以降では無いのか?と思われるだろうが、実は明確な根拠は一切無い(笑)。
要するに雰囲気である。1941年から1942年の東部戦線にしては緊迫感が無く、分隊長クラスがろくな武器も持っていないので、 内地の冬かな?と考えただけなのである。
もう少し軍装を見てみると・・・
 
3人とも雪の中なのにコートを着ていない・・・。
しかし中央のブルケはトークの様な物を首にまとっている。 ブルケは胸に陸軍勤続章を、右後方の下士官は二級鉄十字章のリボン?を付けている様だ。
更に細かく見ると、ブルケの野戦服に付けられている国家鷲章は上の写真の物より縁取りが太く、台布付きの物の様にも見える。
また、胸に体力検定章も付けていない。
ベルトバックルは写真で見る限りアルミ製の無塗装の初期型の様で、彼らが古参である事を示している。
また、上の写真とはガスマスクケースのストラップが逆に掛けられているのも興味深い。
まるで捕虜にでもなった様な・・・(笑)。
 
こちらを向いている下士官もウエストベルトをしていないし、コート姿の兵?も武器を持たず、ウエストベルトをしていないので、この写真だけ見るとまるで捕 虜にでもなったかの様に見える(笑)。
取り敢えず右から2人目のブルケが何かを腰にぶら下げているのでウエストベルトをしている様だが、腕に隠れて見えない。
この写真はちょっと見ると、中央の下士官が規格帽を被っているので、1943年以降と言う様に見えるが、実はこの帽子は山岳帽の特徴を備えており、年代特 定の手がかりにはならない。
どちらかと言うと、左端の兵士のコートの襟の方が重要で、この大型の襟のコートは1942年以降に支給された物である。

この写真では略帽を被っているブルケだが、いわゆる規格帽を被った写真もあるので、中央の下士官の40年型野戦服や、左端の兵士のコー トの大型の襟等から、1942年の撮影ではないかと思われる。
この時点でブルケが第9歩兵師団に所属していたと言う確証は無いのではあるが、次ページで紹介する写真の中に、第9歩兵師団と関わりがありそうな写真があ るので、取り敢えずブルケは第9歩兵師団にいたものと言う仮説の元に話を進めて行く事にする。
ただ、問題は第9歩兵師団が1943年秋から翌年にかけて、ウクライナで壊滅的なダメージを受け、デンマークに撤退して第9擲弾兵師団に改編されていると 言う事実がある事で、全ては仮説である事には変わりは無い。

もう少し軍装を見てみると・・・
 
左側のコート姿の兵は、襟の大きいコートを着用しており、帽子は略帽の様である。
また中央の下士官は5ツボタンの40年型野戦服になんと山岳帽を被っている。この帽子を山岳帽と判断したのは、帽章がT字形をしている事と、正面の折り返 し部分が丸形である事による。
規格帽の登場前には陸軍用のツバの付いた野戦帽は他に無かったため、山岳部隊以外の兵士でもこの様に山岳帽を購入着用している例があった。
右端のブルケはコートに略帽姿であるが、この後に紹介する写真では規格帽を被っている。
これはまた・・・
 
典型的なプライヴェート写真でキャプションの付け様が無い(笑)。
ただし、この時のブルケは肩章で見る限り既に曹長になっている様だ。
したがって、”ワインを飲む下士官3人”の時より2階級昇進している事になる。(あの写真では伍長)
それにしても、またもや随分高級な乗馬ブーツを履いているが、後は何も書く事が思い浮かばない・・・・(汗)。
余談になるが、前回紹介した夫婦のポートレートでブルケは36年型の角形肩章を付けているが、こうして改めて考えると、ブルケが軍曹になった時点では、既 に角形肩章はかなり旧式の物になっている事から、ブルケが自分が古参兵である事にかなりの想いがあった様に思える。
ブルケの勤務服や、こうしたドキュメントがどの様な事情や経緯をたどって軍装市場に出回ったかは知るすべも無いが、1914年生まれ(体力検定章のドキュ メントより)の彼は、2000年の現時点で生きていても86歳と言う事になる。
おそらく本人は既にこの世の人ではなく、遺族から売りに出された様に思うのだが、何か感慨深いものが感じられる。
   
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28.May.2000 公開
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