ここでは、ドイツの徴兵制に関する資料を掲載しています。
   
 
はじめに

 本コンテンツでは、1935年から1945年のドイツの徴兵制について、その概要を紹介する。
リエナクター向けに、兵役前の義務と当時の欧州の状況も書いたが、欧州情勢に関しては極力現代の価値観を排除して記したので、当時の人々がどのように感じたかを是非とも想像してみて欲しい。


徴兵制とは

 
徴兵制とは通常、国家がその国民の中の一定年齢の男子に「兵役義務」を課す制度のことで、一般的な兵役義務期間は数年間とされている。

 この徴兵制度を歴史的に見ると、その起源はフランス革命の頃にさかのぼることができる。元来は、ヨーロッパのような陸続きの大陸で、一つの国が独立を保つ為には、ある程度の軍事力を持つ事が必要であったが、戦争をしていない平時に強大な軍隊を持ち続けることは、国家の経済的負担も大きかったので、ナポレオンの登場以前の各国は、戦時に常備軍以外に傭兵を雇って戦争をしていた。しかし、フランス革命は国民を強制的に兵士にする徴兵制も生み出し、これ以降のヨーロッパ各国も徴兵制を導入した。

 一方ドイツでは、後のドイツの礎とも言えるプロイセンでも、徴兵制が導入されており、さらにこの制度を発展させていた。 プロイセンの徴兵制では、兵役を終えて除隊した兵士達を後衛軍:Landwehrとして組織し、有事にはこれを正規軍に加えるシステムを構築していた。これによって、戦時には職業軍人とその時点で兵役に就いている現役兵に加え、新兵よりも短期間の訓練で使える大量の予備役兵を投入できるようになったのである。

   

第一次世界大戦の終結から再軍備へ

 1918年に第一次世界大戦に敗れたドイツは、ヴェルサイユ条約で攻撃力を持つ軍隊を所持する事を禁止された。
このヴェルサイユ条約が規制の網を掛けていたのは、兵器の開発生産、購入だけではなく、陸軍将兵の総数も10万人と定められており、当時の欧州では対等な外交能力奪ったに等しい状況であった。
 巨額の賠償金に加え、戦後も続けられたイギリスによる海上封鎖、さらには世界恐慌もあって、ドイツ国内には失業者があふれ、ドイツ国内の政治状況は極めて不安定であった。

この様な状況下、アドルフ・ヒトラー:Adolf Hitlerが率いる国家社会主義ドイツ労働者党:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei (N.S.D.A.P.)が、失業者対策を公約にし、1933年に行われた総選挙で政権を取った。さらに、1935年にはヴェルサイユ条約を一方的に破棄し、ドイツは再軍備を開始した。
 これに対して、戦勝国であったフランスやイギリスは公式に抗議はをしたものの、再び戦争になる様な武力行使は行わなかった。





 
1935年以降のドイツの徴兵制

 再軍備を宣言し、徴兵制を導入した直後の兵役は、満20歳になった健康な男子に、一年間の兵役義務を課すものであった。具体的には、1935年3月以降は20歳になった男子は、その年の秋に軍の兵役検査を受け、心身ともに兵役に問題が無い場合には軍に入隊し、現役兵として一年間の軍隊生活を送ることとされた。
 兵役義務期間が一年間と短めに設定されたのは、第一次世界大戦降のヴァイマール共和国では、ヴェルサイユ条約により徴兵制は禁止されていたことと、ドイツ国軍:Reichswehrでは、陸軍将兵の総数が10万人に制限されていたにもかかわらず、下士官・兵の服務年限は12年、将校の服務年限は25年と、長期現役制が敷かれていたため、17年間にわたり多くの兵役適齢期の国民に新兵教育が施せななかったこと、兵役を終えた後衛軍を予備兵力として備蓄することができなかったことを、早急に補おうとしたためであった。
 しかし、この制度で定めた兵役義務期間の一年間には、兵役義務を終えた現役兵の除隊時に、新兵教育を終えたばかりの現役兵がいなくなってしまうという、きわめて重大な欠陥があったため、1936年8月以降は、兵役義務期間は2年間に延長された。

 また、この二年間の兵役を終えた兵士は軍を除隊するが、35歳までは予備役、45歳までは後備役として、軍が必要とした時には、ただちにその召集に応じる義務も科せられていたのである。
 こうしてドイツ国防軍:Wehrmachtは、有事には20歳から45歳までの健康な全男子を、ただちに兵士として動員することができる態勢を得たのである。
 そして、この兵役開始年齢は戦争が始まると18歳からに引き下げられ、志願の場合は17歳からとされたほか(最終的には16歳まで引き下げられた)、兵役年齢の上限も戦争が激化すると徐々に引き上げられ、戦争末期には軍管区によって最高61歳までの兵役もあった。

兵役検査の風景

 登録が終わると間もなく、準徴兵区司令部が対象者に、兵役検査:Musterrungを実施する旨の通知をした。

 この検査は登録地区:Musterrungsbezzurkeごとの市区町村の行政当局、所轄警察、軍当局、国家労働奉仕団(RAD)などの行政側代表と、医務官で構成された検査委員会:Musterrungsstbが実施した。

 この検査は対象者の健康状態を調べるもので、検査結果で対象者は兵役に適格か否かだけではなく、どの程度の兵役に就くことができるかに分類された。

 健康面での分類を終えた登録者は、引き続き予備役区分に分類された。

 なお、当時すでに軍の職種はかなり専門化していたため、陸軍では本人の体力や健康度、職業および特技などを考慮して、配属部隊を決定していたので、特殊技能者に関しては他の管区と融通しあうこともあった。

ドイツの徴兵制と軍管区

 ドイツには軍の編成および徴兵などを地域ごとに執り行うための、軍管区:Wehrkreiseという制度があり、徴兵の手続きから訓練、部隊編成から各師団への補充などは、全てこの軍管区ごとに行なわれていた。戦争の始まる前のドイツはその国土を15の軍管区に分割しており(領土の拡大にともない増やしていった)、各軍管区には通常2ないしは3の徴兵区:Wehrersatzbezirkがあった。

 徴兵区は地域差があるものの、更に4から12の準徴兵区:Werhbezirkeに分割され、この準徴兵区には、中佐もしくは大佐が指揮管理する準徴兵区司令部:WerhbezirkskommandosW.B.K.)が設置されていた。

 戦前における徴兵の手続きは、登録にはじまり、兵役検査、徴募、召集、編入という流れで進められていたが、これも戦争が始まってからは、徴募と召集が同時に行なわれる等の簡略化がなされたり、徴兵範囲が拡大されていった。

 

  戦争初期の軍管区( )内は司令部所在地

I軍管区 オストプロイセン(ケーニヒスベルク)

II軍管区 ポンメルン(シュテーティン)

III軍管区 ブランデンブルク(ベルリン)

IV軍管区 ザクセン(ドレスデン)

V軍管区 ポーゼン(シュトゥツガルト)

VI軍管区 シュレージェン(ムンスター)

VII軍管区 ヴェストファーレン(ミュンヘン)

VIII軍管区 ラインラント(ブレスラウ)

IX軍管区 シュレースビッヒ・ホルシュタイン(カッセル)

X軍管区 ハノーファー(ハンブルク)

XI軍管区 ヘッセン・ナザウ(ハノーファー)

XII軍管区 オストザクセン(ヴィースバーデン)

XIII軍管区 ヴュルテンベルク(ニュールンベルク)

XIV軍管区 バーデン(マグデブルク)

XV軍管区 エルザス(イエナ)

XVI軍管区 ヴェストロートリンゲン(ベルリン)

XVII軍管区 ヴェストプロイセン(ヴィーン)

XVIII軍管区 ヘッセン(ザルツブルク)

(1939年の時点では、第XIII~第XVI軍管区はまだ無く、15軍管区だった)



 
訓練中の後衛軍:Landwehrの記念撮影

 
規定の兵役を終えて、除隊した35歳未満の者、または短期訓練履修済みで、35歳未満の者は予備役に登録されたが、訓練履修済み、もしくは訓練未修の35歳から45歳までの者は、後衛役に登録された。

 更に、元々平時から兵役年限が55歳までとされていた、第一軍管区、オストプロイセンでは、国民突撃隊役として45歳から55歳までの者(末期には61歳にまで引き上げられた)が登録された。





兵役前の義務

 ヒトラーユーゲント:Hitlerjugend

 N.S.D.A.P.の青少年組織であったヒトラーユーゲントは、青少年の肉体の鍛錬、祖国愛、民族共同体としての意識醸成を目的に設けられた教化組織であった。その創設は1926年で、当初は男子のみで構成されていたが、1929年には女子部門も創設され、1930年よりドイツ少女団:Bund Deutscher Mädel(B.D.M.)となった。
 N.S.D.A.P.政権下の1934年6月以降は、各種青少年団体を吸収して拡大され、193612月に「ヒトラーユーゲント法」が成立すると、ヒトラーユーゲントは国家の公式な青少年団体となり、10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられるとともに、他の青少年団体は禁止された。
 ヒトラーユーゲントは、上記の様に肉体の鍛錬、祖国愛、民族共同体としての意識醸成を集団生活の中で教化するのが目的で、その活動はスポーツやキャンプを中心とした課外活動であった。
 1939年には800万人のメンバーを
擁する巨大な組織に成長したが、戦局が悪化した1944年までは、よく言われている様な準軍事的訓練は行われていなかった。
 しかし、1940年にアルトゥール・アクスマンがヒトラーユーゲントの指導者に就任した後には、戦争で不足しつつあった国内の労働力の代替として、ヒトラーユーゲントの活用が始められ、消防・郵便・ラジオなどの分野にヒトラーユーゲントの隊員が投入された。
 さらに1943年になると、国家総動員体制の一環として、ヒトラーユーゲントのリーダークラスを基幹要員として、SS 12.Panzer Division:第12SS装甲師団”Hitlerjugent”が編成されたほか、空軍の高射砲補助隊員などの形で、兵として動員され、1944年には更なる戦局の悪化で国民突撃隊に併合された。




 
兵役前の義務

 国家労働奉仕団:ReichsarbeitsdienstR.A.D.

 N.S.D.A.P.政権下の失業対策政策として設立された労働組織で、第二次世界大戦中には、ドイツ国防軍の支援を行った補助機関でもある。
 ヒトラーユーゲントと同様に、当初党組織だったものが、1935年6月に他の団体を吸収して国家組織とされた。
組織は男女別に、男性用のReichsarbeitsdienst Männerと、女性用のReichsarbeitdienst der weiblichen Jugendがあり、17~25歳までのアーリア系ドイツ人が所属した。
 所属期間は6ヶ月で、様々な市民サービスをはじめ、公共事業や農業計画の他に、軍事施設の建設などにも携わっていた。
 特に男性用のReichsarbeitsdienst Männerは準軍事組織であったため、団員には徴兵前の軍隊生活の準備期間的意味合いが強くあった。
 国防軍の徴兵が、軍管区によって実施されていた事は既に述べたが、R.A.D.も40の労働管区:Arbeitsgauにより運営されていた。各労働管区には本部と保衛中隊が設けられていて、6~8個の労働大隊が編成されていた。この労働大隊は6個中隊(各中隊は約300名)編制で、各中隊は4個小隊(一個小隊は約70名)編制であった。
 団員にはR.A.D.の団章を縫い付けた、褐色の陸軍型制服とスコップ、自転車が貸与されていた。

 戦前のR.A.D.が携わった公共事業としては、アウトバーン建設が有名であるが、農業計画に基ずく運河建設や耕作地の整備事業など広範囲な活動が行われており、開戦後には架橋を含む軍用道路、鉄道、飛行場の建設及び保守を行った。

 開戦直後の1939年10月には、R.A.D.団員の総数は350,000名にのぼり、1,700個中隊が編制されていた。1940年の西方戦役には約半数の900個中隊、ノルウェーにも18個中隊が派遣され、現地で道路などの建設工事に従事した。
 1941年のバルバロッサ作戦には15個中隊編制の自動車化R.A.D.大隊が5個大隊(75個中隊)派遣され、翌1942年には実に472個のR.A.D中隊が東部戦線で活動していた。
 1943年の国家総動員体制以降、R.A.D.は更に軍事色を強め、6週間の訓練を受けた420個中隊が空軍対空砲部隊に所属した他、独自の対戦車や対空部隊も編制された。
 そして、1944年9月にはR.A.D.2個中隊が歩兵及び砲兵として前線に投入され、1945年になると軍事訓練のみを行った。   1945年4月にはR.A.D.3個師団が編成され、ヴァルター・ヴェンク装甲兵大将貴下の第12軍に配属、ベルリン救出作戦に従軍し、ポツダム近郊まで進撃した。

R.A.D.の日常

スコップを肩に整列するR.A.D.分隊。

これが小銃であれば、陸軍の歩兵分隊に見えるだろう。
それもそのはずで、彼らは陸軍で行われていた執銃訓練のような訓練をスコップで行っていた。
R.A.D.の日常

R.A.D.ではスポーツも盛んに行われていた。

前述の様に、準軍事組織であったR.A.D.では、団員の肉体の鍛錬も重要な役割の1つであった。

これは徒競走であるが、R.A.D.らしく丸太を使った競技の写真も残っている。
R.A.D.の日常

これは障害物競走である。

グランドに打ち込まれた杭には有刺鉄線を模した針金が張ってあり、陸軍に準じた競技となっている。

こうした競技を通して得られた各団員の体力に関するデータは、兵役検査のデータとしても利用されていた。
R.A.D.の日常

これも見ての通り、障害物競走である。

前面に設けられた障害物は、武装親衛隊:Waffen-SSの写真集”Wenn alle Brüder schweigen”にも写真が掲載されているので、ご存知の方もいるだろう。

R.A.D.では、こうした障害物の設営も訓練であった。
 
開戦前の欧州情勢

 前述の様に、ドイツがヴェルサイユ条約を一方的に破棄した際、イギリスやフランスの対応は公式に抗議をするに留まった。
こうした状況の下、失地回復を目指すヒトラーの対外強硬政策が始まった。
 手始めはザール地方の返還で、ヴェルサイユ条約の規約でも許されていた住民投票を実施し、住民の92%がドイツへの帰属を求めた結果を受け、ザール地方はドイツに復帰したのである。

 そして、翌1936年3月7日にはヴェルサイユ条約で非武装化されたラインラントに、ドイツは国防軍を進駐させた。
また、この年には内乱が勃発したスペインにも武力介入を行い、新生国防軍の戦術や兵器の効果、性能を実戦で検証した。

 さらに、1938年3月11日には、第一次世界大戦で産業基盤を失い、経済的に疲弊していたオーストリアに進駐し、13日にオーストリアを併合した。4月10日にはオーストリア国民による国民投票が行われたが、その結果は97%がドイツへの帰属に賛成の票を投じた。
 ここでもイギリスやフランスは、対独宥和政策と民族自決の建前からこれを容認した。
 オーストリアの併合後、ドイツ系住民が多く住むチェコスロバキアのズテーテンラントで自治要求活動が活発化した。1938年9月にドイツはこれを理由にチェコスロバキアにズデーテンラントの割譲を要求し、応じない場合は軍事力の行使をも辞さないという構えをとった。
 これに対してはイタリアが調停に入り、9月29~30日に当事国のチェコスロバキアを参加させず、イギリス、フランス、イタリア、ドイツの4カ国によるミュンヘン会談が行われた。この会談ではドイツの領土拡大要求はこれを最後とするのを条件に、ズテーテンラントをドイツに割譲するミュンヘン協定が締結された。
 しかし、ドイツは10月にはポーランドにダンツィヒの返還と、分断されていたオストプロイセンまでの鉄道及び道路建設の許可を要求した。このダンツィヒ回廊は、ヴェルサイユ条約でポーランドに与えられた地域であるが、ポーランドにとってはバルト海への出口を再度獲得したもので、交渉は難航し、翌1939年9月1日にドイツがポーランド侵攻を行い、第二次世界大戦が勃発したのであった。


 こうした外交的勝利の裏には、第一次世界大戦の戦勝国の側にも様々な事情があり、ドイツと再び戦争をする事には躊躇せざるを得ない状況にあった為である。
 1939年のポーランド侵攻作戦を実施するまでに、ドイツは318万人を有する国防軍を作り上げていたが、1937年頃であれば、もしもフランスが武力介入を行えばドイツに勝ち目は無かったと言われている。

 一方、第一次世界大戦で割譲された地域に住むドイツ系住民から見れば、ドイツは極めて短期間で経済復興を成し遂げると同時に、着実に失地回復を行っており、肩身の狭い状況から脱してドイツに帰属できる事に異を唱える理由は無かった。

 ドイツ国内で見ても、失業者を無くす事を公約に政権を取ったN.S.D.A.P.政権は、第一次4ヵ年計画でアウトバーンを始めとする数多くの公共事業を行い、第二次4ヵ年計画では、食料自給率100%を公約に掲げた。この政府は実際に多くの国民に職を供給する事に成功していた。そして、食料自給率向上の政策では主に農業改革を行い、その中で一定規模以下の農地の分割相続を禁止する政策等を実施した。一部農家の次男三男等は新たな職を求める必要が生じたが、R.A.D.や国防軍がその大きな受け皿となった事は言うまでもない。
 第二次4ヵ年計画は、天候不良に見舞われた事もあり、決して順調には推移しなかったものの、かつて63%であった食料自給率は、第二次世界大戦開戦の1939年には80%へと向上した。

 第一次世界大戦で深刻な食糧不足を経験した世代にとって、生存圏の確保は戦争を始めるに充分な大義名分と感じられた事は想像に難くない。

花の戦争

沿道から花束を車上のヒトラーに渡そうとする少女。

ザール地方の獲得に始まり、ズデーテンラントの割譲までは、軍隊が進駐しても本格的な戦争にはならなかった。

1938
312日、ドイツの傀儡政権としてオーストリア首相となっていたインクヴァルトの要請を受けて、ドイツ軍の進駐が開始された。

国境は無抵抗で開かれ、ヒトラーは民衆の歓呼の中、彼自身が少年時代を送ったリンツ経由で、14日には首都ヴィーン(ウィーン)に入城した。

ドイツ軍兵士達は、ドイツに無血勝利をもたらした本作戦を”花の戦争:Blumen Krieg (ブルーメン・クリーク)”と呼んだ。

当時の映像でも、凱旋する軍やヒトラーに、沿道から民衆が花束を渡しているシーンが多く撮影されている。


あとがき

 本コンテンツをご覧になられたリエナクター諸氏であれば、「人類の歴史は戦争の歴史である」とか、「歴史は勝者が作るもの」とも言われているは既にご存知だろう。この言葉は裏返せば、通常の歴史には「敗者の視点・観点が欠落している」と言う事になる。
 したがって、敗者側を再現するにあたって留意しなければならないのは、この敗者側の視点・観点への考察である。
これは時代、国、言語、宗教などの違いがあり、難しい側面がある事は否定しないが、まずは当時の人々が置かれていた状況から、想像しようとする姿勢を持つ努力から始めてみると良いと思っている。
 近年よく見かける、現代感覚から見た第二次世界大戦に関する書物や映画から、リエナクターが得られるものは殆ど無いと言っても、決して過言では無いだろう。


       
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30.Dect.2015 公開
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