ここでは、GOTENBA SVG NET HGG13 1945 BATTLE OF BIZORYのドイツ軍側設定部隊に関する資料を掲載しています。
   
 
はじめに

 今回は、”GOTENBA SVG NET HGG13 1945 BATTLE OF BIZORY 「ビゾリーの戦い」”のドイツ軍側設定部隊、 第12SS装甲師団”Hitlerjugend:ヒトラーユーゲント”についての豆知識を紹介する。

 イベントの設定

ドイツ軍 第12SS装甲師団、第26SS装甲擲弾兵連隊、第Ⅲ大隊、第10中隊、第1小隊

 1945年1月6日、バストーニュの東側のアゼットを防衛していたアメリカ軍第50戦車歩兵大隊を撃破したドイツ軍第26装甲擲弾兵連隊第Ⅲ大隊は引き続きビゾリー攻略を下達される。

 第26装甲擲弾兵連隊第Ⅲ大隊第10中隊は、ビゾリーへの先遣偵察を下達されビゾリーへ向け前進を開始した。 ビゾリー近郊に防御展開したアメリカ軍第101空挺師団第506パラシュート歩兵連隊第1大隊は敵の攻撃前進を察知し防御準備中である。
第506パラシュート歩兵連隊第1大隊E中隊は防御陣地前面へ進出し、ビゾリーの森で敵状偵察を下達された。


■ドイツ軍SS第12戦車師団第26装甲擲弾兵連隊第Ⅲ大隊第10中隊はビゾリー攻略の先遣として偵察、攻略の状況を再現する。

■アメリカ軍第101空挺師団第506パラシュート歩兵連隊第1大隊E中隊はビゾリー防衛のため陣地の構築、警戒、偵察、防御の状況を再現する。

 なお、本文中の”ヒトラーユーゲント”は青年団を示し、第12SS装甲師団は”Hitlerjugend”師団または、H.J.師団と記す。

本コンテンツを制作するにあたり、コンテンツの画像及び文章の使用許諾をして下さったGOTENBA SVG NETさん、師団史から関連部分を抜粋してまとめた記事の転載を許諾して下さったハント氏に、この場であらためて感謝の意を表します。


   
12. SS-Panzer-Division ”Hitlerjugend”
第12SS装甲師団”ヒトラーユーゲント”

第12SS装甲師団”ヒトラーユーゲント”の誕生

 1943年になると戦争は益々激しくなり、総動員体制が敷かれるようになった。そのような中、1926年上半期生まれ(満17歳)になったヒトラーユーゲントのリーダーを基幹要員とした新師団の編成が発案認可された。本来的には17歳は兵役年齢ではなく、R.A.D.への入団義務もあたった。これは総統命令により、ヒトラーユーゲント訓練キャンプでの、6週間の予備軍事訓練をもって免除された。
 志願男子は兵役適格者とし、歩兵要員は170cm以上、戦車、通信、オートバイ部隊要員及び、特別訓練を経た者は168cm以上とする身長制限が設けられた。また、師団創設時に必要とされる約840名の将校、4000名の下士官について、大隊長級以下の陸軍将校から400名、下士官2500名は、ヒトラーユーゲント出身者を転属させる事でまかなう事とされた。
 しかし、将校・下士官だけではなく、兵の募集も決して順調には進まなかった。
 また、当初装甲擲弾兵師団として編成された同師団は、総統命令で装甲師団として再編成され、親衛旗SSアドルフヒトラー:1.SS Panzerdivision Leibstandarte SS "Adolf Hitler"で第1SS装甲擲弾兵連隊長を務めていたフリッツ・ヴィットSS准将が師団長に着任した。
 フリッツ・ヴィットSS准将が着任後に、志願者達を見て最初に行ったのは、食事の改善と体力作りであった。
食料事情の悪化で、ヒトラーユーゲント団員と言えども、兵隊としての訓練に即応できる状態では無かったのである。

 "Hitlerjugend"師団(以後H.J.師団)は、1943年秋に問題視され始めたアングロアメリカ軍(米英軍)の上陸作戦に対して投入する事があらかじめ決められていた。
 東部戦線の状況は悪化していたが、まだドイツ国境に危機が迫っている訳ではなかったので、西部で新たな戦線ができた場合には、これに勝利してから東部戦線に全力を持って対処しようとしていたのである。

 この様な状況下、H.J.師団は当初装甲擲弾兵師団として計画され、後に装甲師団として編成する様に変更された。戦車連隊が加えられたのは、侵攻軍に対する打撃力をアップする事が目的で、運用にそった編制が選択された結果である。
 また、師団史によると、通常の編制表は厳密に守られた訳では無く、更に総統からの指示とも異なる編成が行われた事が書かれている。
 したがって、編成に関しては師団司令部にはある程度の裁量権があった事が確認できる。

 例えば、SS第12戦車連隊の第Ⅱ大隊では、通常6門編成の牽引式20mm対空砲小隊の代わりに、Ⅳ号戦車の車体に4連装の20mm対空砲を搭載した、自走対空機関砲3両からなる装甲対空砲小隊を保有していたり、Ⅳ号戦車22両を装備した4個中隊の代わりに、17両編成の5個中隊を、更に完全編成の1個中隊も保有していた。
 また、SS第25及び26装甲擲弾兵連隊も、師団のオートバイ中隊と同様の編成を持つフォルクスヴァーゲン装備の捜索中隊を追加配属されていた。
 これらは、米英軍の航空兵力を意識したと同時に、敵上陸に際して敵情を的確に偵察し、さらにある程度の範囲(巾)に反撃を加える目的によるものと考えられる。





 

師団章


12. SS-Panzer-Division ”Hitlerjugend”の編成
   
 SS-Panzergrenadier Regiment 25 : 第25SS装甲擲弾兵連隊
 SS-Panzergrenadier Regiment 26 : 第26SS装甲擲弾兵連隊
 SS-Panzer Regiment 12 : 第12SS装甲連隊
 SS-Panzer Artillerie Regiment 12 : 第12SS装甲砲兵連隊
 SS-Kradschützen-Regiment 12 : SSオートバイ兵連隊
 SS-Aufklärungs-Abteilung 12 : 第12SS偵察大隊
 SS-Panzerjäger-Bataillon 12 : 第12SS対戦車猟兵連隊
 SS-Werfer-Abteilung 12 : 第12SSロケット砲大隊
 SS-Flak-Bataillon 12 : 第12SS高射砲大隊
 SS-Pionier-Bataillon 12 : 第12SS工兵大隊
 SS-Panzer-Nachrichten-Abteilung 12 : 第12SS装甲通信大隊
 SS-Instandsetzungs 12 : 第12SS戦車修理大隊
 SS-Nachschub-Truppen 12 : 第12SS補給部隊
 SS-Wirtschafts-Battaillon 12 : 第12SS管理大隊
 SS-Führerbewerber-Lehrgange : SS指揮官志望者課程
 SS-Kriegsberichter-Zug (mot) 12 : 第12SS自動車化宣伝小隊
 SS-Feldgendarmerie-Kompanie/Trupp 12 : 第12SS野戦憲兵中隊/部隊
 SS-Feldpostamt (mot) 12 : 第12SS野戦郵便局(自動車化)
 SS-Sanitäts-Bataillon 12 : 第12SS衛生大隊
   

ノルマンディー戦(初陣)でのH.J.師団
 
 今回のH.G.G13にはあまり関係が無いので簡単に記すが、1944年6月6日、アングロアメリカ軍(米英軍)の上陸作戦が開始された時点で、上陸地点にもっとも近い位置に配置されていた装甲師団が、陸軍の第21装甲師団とH.J.師団であった。
 しかし、ドイツ軍側はこの上陸が陽動作戦か否かの判断に時間が掛かり、反撃命令が遅れたためにアングロアメリカ軍を海に追い落とすことができなかった。
 その結果、ドイツ軍は防戦を余儀なくされたが、H.J.師団はノルマンディー地方の交通の要衝カーン市周辺に展開。
ここで、カナダ軍を主力とする英軍と激戦を繰り広げるが、英軍は「ベイビー師団」と揶揄していたH.J.師団に苦戦を強いられ、当初上陸の初期段階で占領する予定であったカーン市攻略に約2ヶ月を要した。
H.J.師団も、6月14日には師団長フリッツ・ヴィット准将を敵艦砲射撃で失うなど、大きな損害を被りつつ奮戦。
 カーン市から撤退した後には、ファレーズポケット(ファレーズ包囲網)で後衛部隊を務め、他の部隊の後退を可能ならしめた。
しかし、このファレーズポケットでH.J.師団はほとんど壊滅状態となった。

 ノルマンディー戦前のH.J.師団は、20,540名の将兵を有していたが、この戦いで8,569名の損害を被ったのである。
内訳は、戦死者 将校55名、下士官229名、兵1,548名 負傷 将校128名、下士官613名、兵3,648名 行方不明 将校58名、下士官182名、兵2,012名となっている。

そして、撤退戦後に残った兵器は全て、後退の途中で、戦闘を続けていた部隊に譲渡したため、兵員のみならず、兵器も無い状態で再編成される事になった。




 

ラインの守り作戦へ向けての再編成 (1944年秋)
 
 まず、最初に確認しておきたいのが、編制と運用の関係である。
編制は基本的に、運用(目的)にそったものであり、編制ありきで編成された部隊を運用したのでは無いと言う事である。
 これは、ノルマンディ戦に向けて編成された同師団についても言える事で、通常の編制表よりも対空砲小隊及び捜索大隊、戦車連隊が増強されており、対空戦闘力と偵察能力、さらには攻撃力も強化されていた。
 ドイツ軍の場合は、戦局の変化に伴い、防御戦闘の比率が高まった結果、防御を効率的にできる編制を作成したのであって、目的が攻撃と定められていた場合には、攻撃に適した編制を採用するのが基本であった。
 慢性的な兵員不足はあったが、そもそも戦力にならない部隊はいくつ作っても作戦など成功するはずが無い。
 その意味では、「この時期だから、この編成だっただろう」では無く、「この作戦に従軍した部隊は、この編成だった」の方が、実際に近いと思われる。

師団史より

 1944年9月に行われた再編成について、以下の様な記述がある。

 撤退戦後に残った兵器は全て、後退の途中で、戦闘を続けていた部隊に譲渡されていたので、重火器は100%の水準で補充が必要であった。

 携行、及び自動火器や、オートバイ、自動車、トラックについては、必要数の75%が補充されることとなり、牽引車は出来得る限りの支給が約束された。この結果、捜索大隊の場合には、1個捜索中隊だけが、16両の装甲偵察車と30両の軽装甲兵員輸送車を受領することとなり、また装甲擲弾兵大隊(第26連隊第Ⅲ大隊)には、必要最低限である135両の中型装甲兵員輸送車が支給された。

 しかし何よりも頭を痛めたのは、兵員の補充であった。なにしろこれまでに失われた将校、下士官、兵併せて9,000名を埋め合わせなければならなかったのだ。

中略

 下士官、及び兵の補充要員は、若い志願兵や療養中の負傷兵をも含む補充部隊からやって来た。また、そのうちの2,000名以上は空軍や海軍からの転属兵によって占められていたが、彼等は地上戦の訓練を受けていなかった。補充要員の中には、地上戦闘経験のある年輩者も含まれていたので、彼らは可能な限り、非戦闘部門出身の若手の下士官たちと交替させられた。



 要するに、再編成前の同師団は丸腰だったということで、ほとんど新しい師団を編成するに近い状況であったと言えよう。

 さらに師団史によると、「装甲擲弾兵大隊(第26連隊第Ⅲ大隊)には、必要最低限である135両の中型装甲兵員輸送車が支給された。」とある。この中型装甲兵員輸送車はSdkfz.251をさしているが、Sdkfz.251は定員12名(乗員2名、兵員10名)で、攻撃型の10名編成の分隊が乗車可能となっていた。

 ちなみに、同時期に再編成を行った10.SS.Panser Division” Frundsberg”(フルンズベルク)のベテランの話では、各分隊は9名で、各部隊は概ね3の倍数で構成されていたとのことである。


 史料が未発見のため確証は無いが、今回の1945年1月を設定した"Hitlerjugend"師団の編成は必ずしも創設時の機動防御型編制では無く、機動攻撃型編制ではなかったか?と言うのが私の見解である。

 この再編成は、”ラインの守り作戦:Unternehmen Wacht am Rhein”への投入を前提としており、ラインの守り作戦は、防御では無く攻撃なので、各分隊の編制は9~10名編成(機関銃班3名)だったと考えられる。
 これは、8名編成では分隊火器であるMG42の携行弾数が少なく、移動速度の速い攻撃では弾薬補給が困難となるからだ。

 ただし、イベントの設定である1945年1月6日であれば、H.J.師団は軍団予備となるために交代が進められているので、各部隊に欠員がいた方がより正確な編成と言えるだろう。


訓練について

 ラインの守り作戦への投入が決まっていたH.J.師団の訓練は、まさに時間との戦いでもあった。
しかし、教官などの人的資源、武器弾薬・燃料などの物的資源共に不足する中で困難を極めたが、作戦開始目に各部隊を実戦投入可能な状態に仕上げることができた。その様な中で、教育・訓練には様々な工夫もなされた。
 その一例「射撃訓練」について紹介すると

 ドイツ軍の射撃教育・訓練は、弾道学などの座学に始まり、訓練弾を使用しての操作訓練、空砲を使用しての射撃訓練、そして実包による射撃訓練と言う流れで実施されていた。しかし、座学と実銃を使用する訓練には、即応できない新兵もいたため、  H.J.師団の装甲擲弾兵の新兵教育訓練では、座学を省いて実銃による操作訓練以降に時間を割いた。また、この訓練に於いては、新兵が萎縮するような怒号は控え、集中して操作を学ばせる新しい訓練法が考案・採用されていた。



士気”について

 師団史によると、再編成中の訓練において、射撃訓練用の空包が無かったり、燃料不足で機動訓練もままならなかった事などが記されている。しかし、ざまざまな部隊より転属してきた兵隊も含め、士気は極めて高かったと書かれている。
 これは、結果を知っていると疑いたくもなるが、当時の兵隊のおかれた状況を考えると、左程誇張した表現とは言えない。

 数年前まで、全欧州を手中にしていたドイツが、この作戦によってアングロアメリカ軍に大打撃を与え、立ち直るまでの期間に東部戦線に全力を注ぎ、決着をつけた後(勿論東部戦線で勝利して)、アングロアメリカ軍と対峙すれば、まだ勝算があると考えたのも理解できるからである。

 
 
当該状況(師団史よりハント氏が抜粋)

 
1月3日 午前 師団はバストーニュ攻撃に向けグループごとに集結。
SS26装甲擲弾兵連隊(以下SS26Pzgr)第Ⅱ大隊は同第Ⅲ大隊の左側、ノヴィル~ブールジ間の道路南約2キロの森に入った。
第Ⅱ大隊は線路までをその左翼とし、その左には第Ⅰ大隊が入った。
攻撃の際、第Ⅲ大隊は第Ⅱ大隊の右斜め後方に続くものとし、第Ⅲ大隊の迫撃砲小隊は第Ⅱ大隊に配属された。
正午には完了。

 第Ⅱ大隊が集結に遅れたため攻撃開始時刻が10:00から14:00に延期。

 14:00 SS26Pzgr攻撃開始。第Ⅲ大隊フォア~ミシャン間の細道が交差する地点で線路に到達。
第Ⅱ大隊も14:50頃には同じく線路との交差点に到着。その後ボワ・ジャックの軽微な抵抗を一蹴。
16:00頃第Ⅱ大隊はアゼットの森の北部で強固な抵抗に遭遇。大損害を被る。
 SS25Pzgrの攻撃は戦車連隊の支援を受けたが、アゼットの森北東部で頓挫。


 
4日 攻撃続行命令。SS26Pzgr第Ⅱ大隊鉄道線路沿いに(その東側を)ビゾリーの北西1.5キロ地点まで攻撃した後、村方面に方向転換。
同第Ⅲ大隊はには、徒歩で線路西側を前進、連隊右側面を防御する任務が与えられた。
第Ⅰ大隊は第Ⅱ大隊の左後方を続くことになった。
攻撃は04:00の野砲ロケット砲での奇襲砲撃によって開始。

 同日 予定通り攻撃開始。第Ⅲ、Ⅱ大隊は07:00までにはフォア~マジュレー間の田舎道に掛かる鉄道橋に到着。
第7中隊がシャーマン2両を小銃擲弾で撃退。
前述の鉄道橋には第Ⅲ大隊が指揮所と野戦包帯所を設置。
 SS26Pzgrの左側ではSS25Pzgrの攻撃が敵砲火のため停滞。

 16:00現在 SS26Pzgr第Ⅱ大隊の兵力は本部と第8中隊(おそらく重火器中隊)を除き、下士官1名と兵28名のみ。
 SS25Pzgrは被害甚大のため、第Ⅰと第Ⅱ大隊が統合、戦闘団となる。

 同日 アメリカ側状況。501pirの前進は進捗せず。SS26Pzgrの攻撃により第50機甲歩兵大隊との連絡途絶。
同A中隊は撤退開始。

 20:00頃 オハラ支隊反撃するも、ドイツ軍が駆逐戦車8両(おそらくSS第12戦車猟兵大隊)を伴った1個歩兵中隊で反撃され、間隙を埋めることはならず。
両大隊(50機甲歩兵大隊、501pir?)撤退開始。


 
5日 攻撃続行命令。SS26Pzgrはブールシ~バストーニュ間の線路両側沿いに南西方面前進。
SS25pgrはアゼットの森とマジュレー北部の森林地帯との間をビゾリーへ突破するよう命令される。

 前夜からのSS26Pzgr第Ⅱ大隊の威力偵察では、敵がアゼットの森とビゾリー北部の森から撤退したこと、駅までの線路沿いに敵がいなことが確認されている。
 同第Ⅲ大隊は早朝より線路西側を前進。攻撃目標に到達するも迫撃砲攻撃を受け第9中隊は甚大な被害をこうむるが、残余8名が残り陣地を強化。
 同第Ⅱ大隊はビゾリー北部の森の南端に進出。
その左側では同第Ⅰ大隊がビゾリー北東1.3キロ交差点南部で連絡した。

SS25Pzgrにおいては、一部部隊がマジュレーとその西側の510高地の占領に成功。その後、敵戦車と砲兵の猛砲撃を受け高地よりは撤退。マジュレーは保持。


 
6日 未明 12SS師団は軍団予備となるために交代が進められる。SS26Pzgr第Ⅱ大隊は同連隊の戦闘予備として集結。その晩、戦区の交代準備命令下る。

SS第12戦車猟兵大隊においては、それまでの数日間にわたる夜間戦闘でブールシ~バストーニュ間の線路とブールシ~マジュレー間の道路との間にある森から敵を一掃した。


 
7日 4時頃 ドイツ軍(部隊不明)はビゾリーから北東方面に伸びる小道(おそらくビゾリー~アルクロール間の小道)沿いに攻撃するが、阻止される。
攻撃は夜明けまで続き、その後に西に転じ、数名が村に侵入するも一掃される。

 同日 SS26Pzgrの戦区の引き継ぎ開始。同第Ⅱ大隊は下士官、兵を合わせて16名だけだったが、引き継ぎを終えブールシ地区へ徒歩で戻った。

 7~8日夜間 師団護衛中隊がマジュレーに移動。


 
8日 朝 第2工兵中隊と師団護衛中隊によるマジュレー西側の510高地への攻撃開始。奪取に成功するが戦力不足のため撤退。

H.J.師団の軍装及び使用火器 (イベントレギュレーション版) 
 スチールヘルメット
レギュレーション

 M3542Helm(ヘルメット、プラスチック製でも可
SSシングルデカール、各種SSパターンの迷彩ヘルメットカバー(ドットパターンは不可)、偽装網、チキンワイヤー、雑嚢ベルト装着可


画像

左上 SSのM35スチールヘルメット

右上 SSのM42スチールヘルメット

左 迷彩ヘルメットカバー
(Fパターン春・夏側)
 野戦帽・規格帽
レギュレーション

 FeldmützeM40船形帽、M43規格帽)


画像

左上 SSの40年型野戦帽(船形帽)

右上 SSの43年型統一規格帽


左 SSの43年型統一規格帽
 迷彩帽
 
レギュレーション

 各種SSパターンの迷彩帽(ドットパターンは不可)
 

画像

左 SSの迷彩帽(Eパターン春・夏側)
 野戦服
   

レギュレーション

 M40M43 FeldbluseM40M41M42M43型のウール野戦服上下)
6個ボタンの陸軍型も可)
 野戦服にはWSSの襟章、肩章(兵科色白)、袖鷲章を装着
 第12SS師団のカフタイトル装用推奨(無くても可)
 第12SS師団以外のカフタイトルが付いている場合は外すか、イベント中スモックなどで隠してください。



画像

左上 SSの40年型野戦服

右上 SSの43年型野戦服

野戦服の支給状況

 1944年11月3日
 師団史には、「各中隊は、野外演習で汚れた軍服や軍靴を乾かすため、付近の森から薪を調達。軍服と編上靴は、各自、一揃えずつしか支給されていなかった。」と、再編成時の新兵達は着替えの野戦服を支給されていなかったことが記されている。

 
 
カフタイトル

 カフタイトルは、単に部隊名称を表す物では無く、部隊の名誉の象徴的な存在であった。

 第12SS装甲師団”Hitlerjugend”のカフタイトルは、ノルマンディー戦での勇気を称えたもので、最初の贈呈式は、1944年9月19日であった。

 画像上が、第12SS装甲師団”Hitlerjugend”のカフタイトル。

 画像下は、海軍での着用例が確認されている物で、ヒトラーユーゲント出身者の一部が着用した物と言われている。

 迷彩服
   

レギュレーション

  使用を許可する装備
 M44型迷彩服上下(いわゆるドットパターン)
 各種SSパターンの迷彩スモック、ツェルトバーン
 四つポケイタリア迷彩服上下、イタリア迷彩つなぎ(大戦中の枯れた色合いのもの推奨)
 積雪があった場合、雪中迷彩衣上下の着用可


画像

左上 SSの44年型迷彩服

右上 SSの迷彩スモック


迷彩衣料の支給状況像

 ファレーズポケットから逃れる事が出来た兵隊の一部は、迷彩スモックや44年型迷彩野戦服も着用した可能性があるが、再編成で加わった約9000名の兵隊には、これらが支給されたか不明。

 防寒着
   
レギュレーション

 極力用意してほしい装備

 Wollmantel Umkehrbarer Anorak(ウールコート、SSパターンの迷彩アノラック上下)

ウールコートは必ずWSSの肩章および袖鷲章を付けて下さい。

各種SSパターンの迷彩アノラック上下(グレー、フィールドグレー単色も可)kalten PallcaSS防寒パルカ)イタリア迷彩は不可


画像

SSの迷彩アノラック


アノラック”について

師団史には、「11月7日 510高地攻撃を命じられた工兵大隊第2中隊に、白い迷彩服が支給されることになった。」とある。

この記述からも、部隊被服である迷彩服は、必要に応じて都度支給されていたことが確認できる。したがって、第26SS装甲擲弾兵連隊、第Ⅲ大隊の戦闘要員にも迷彩服(この場合はアノラック)が支給されていた可能性が高い。



軍装について

 個人的には、リエナクトメントで「再現」するのは、主に「運用」であると考えている。軍装は再現上重要な要素ではあるが、それが「主」では無い。当時の写真は参考になるが、その写真がイレギュラーな物か否かを充分に吟味しないと、見ない方が良い場合がある。存在が確認できても運用がわからない物に関しては、リエナクトメントでは使わない方が良いだろう。

 今回のレギュレーションは、久しぶりに武装SSの部隊が設定となっており、参加者の経済的負担を考慮して、かなり緩めの設定になっている(と思う)。
 
 前線のドイツ軍、特に陸軍や武装SSは被服バリエーションが多いため、細かく見ると被服の統制がとれていなかったのは事実である。しかし、そこに注目して敢えて被服を統制しないのはリエナクトメント的視点では無いと思う。
 同じ釜の飯を食って、苦楽を共にした兵隊と違い、趣味で年に数回程度集まるリエナクターには、被服の統制も「個」を前面に出せない「軍隊」を体感するためには重要なポイントだからである。
 実際の軍隊のように、被服や装備が貸与される訳では無いので、厳格な被服・装備の統制は困難であるが、参加者各位には、軍装に関する統制の必要性は是非とも理解してもらいたい。


 


1944年秋の再編制時における兵器の支給状況


 師団史には、SS第26連隊第Ⅱ大隊を例に補充の状況が書かれており、興味深い部分を抜粋した


 9月5日
SS第12訓練補充大隊から貸与された小銃、及び銃剣400組が到着。第8中隊は重迫撃砲と中迫撃砲、それぞれ1門ずつ保有。ガスマスクと踏鍬(ふみぐわ)が著しく不足。

注 この小銃はKar98kだと思われる。 また、踏鍬は誤訳で長いスコップだろう。

 10月5日
MG34軽機関銃38挺、120mm重迫撃砲1門、及び34式中迫撃砲1門を受領。

 11月1日
75mm対戦車砲3門受領。

 11月7日
MG34軽機関銃をMG42軽機関銃46挺と交換。GW41半自動小銃7挺、GW43自動カービン銃11挺、及び銃剣447本を受領。

 11月11日
ピストル179挺、及びMG42軽機関銃3挺を受領。

 11月18日
ガスマスク800個を受領。

 11月21日
「オーフェンローア」:対戦車ロケット発射器)9門、及び基本配給分として141,600発の小銃、及び機関銃弾を受領。

注 「オーフェンローア」は、小隊支援部隊の装備で、かつての対戦車銃の替わりに供給されていた。

11月24日
MG42軽機関銃7挺、M41小銃望遠照準装置3個、及び信号ピストル36挺を受領。

11月27日
120mm迫撃砲弾160発、柄付手榴弾60発、卵型手榴弾30発、歩兵地雷33個、及びパンツァーファウスト(大)36挺を受領。

注 パンツァーファウスト(大)はPanzerfaust 60の事で、通常歩兵兵器として支給されたと思われる。

 11月29日
パンツァーファウスト36挺を受領。


 G41半自動小銃 及びG43自動小銃は各中隊に1丁以下の配備であり、標準的には分隊火器にMG42、小銃兵はKar98kが標準的な携行火器であったとするのが妥当であろう。

   

おわりに

 今回は、リエナクトメントに役立ちそうなヒントを、H.J.師団の師団史から抜粋して紹介したが、答えは1つでは無い項目もある。しかし、与えられた情報から「どうであったか」を考えるのも、リエナクトメントには重要な要素と思っている。
 本コンテンツが、参加者のリエナクトメントに少しでも役に立てば幸いである。


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16.Jan.2016 公開

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