はじめに 今回は、”GOTENBA SVG NET HGG11 1944 グスタフ・ライン 「モンテ・カッシーノの戦い マジョ高地群の戦闘」”のドイツ軍側設定部隊、陸軍第44帝国擲弾兵師団”ホッホ・ウント・ドイチュマイスター”についての豆知識を紹介する。 本コンテンツを制作するにあたり、コンテンツの文章及び画像使用の許諾をして下さったGOTENBA SVG NETさんに、この場であらためて感謝の意を表します。 |
44. Reichsgrenadierdivision”Hoch-und Deutschmeister” 第44帝国擲弾兵師団”ホッホ・ウント・ドイチュマイスター” |
|
44. Reichsgrenadierdivision ”Hoch-und Deutschmeister”:第44帝国擲弾兵師団”ホッホ・ウント・ドイチュマイスター”は、1943年にスターリングラードで第6軍の投降に伴い壊滅した、44. Infanterie Division:第44歩兵師団を残余兵員を基幹としてベルギーで再編制する際に改名した師団である。 第44歩兵師団は、編制地がウイーンである事からわかるように元々はオーストリア陸軍の2. Division:第2師団を基幹兵力として編制された部隊で、1938年3月13日のオーストリア併合により、ドイツ国防軍に編入された師団である。 旧オーストリアの1. Division:第1師団は、国防軍では主に9. Panzer Division:第9装甲師団に編入されたため、第44歩兵師団はその師団章に旧オーストリアの国章を使用していた。 旧オーストリアの第2師団は近衛大隊を含む精鋭師団で、師団の3個歩兵連隊にはそれぞれ連隊名が付けられていた。 Wiener Infanterie-Regiment 3 ”Erzherzog Karl” (第44歩兵師団では”Infanterie-Regiment 131”) Wiener Infanterie-Regiment 4 ”Hoch-und Deutschmeister” (第44歩兵師団では”Infanterie-Regiment 134”) Wiener Infanterie-Regiment 15 "Babenberg" 第44歩兵師団は、1939年のポーランド戦を皮切りに、1940年の西方戦役、1941年から1943年までは東部戦線に従軍した。 1939年の編制は以下の通りであった。 Infanterie-Regiment 131 : 第131歩兵連隊 Infanterie-Regiment 132 : 第132歩兵連隊(旧オーストリア第3師団Niederösterreichischen Infanterie-Regiment 6) Infanterie-Regiment 134 : 第134歩兵連隊 Artillerie-Regiment 96 : 第96砲兵連隊 I./Artillerie-Regiment 97 : 第97砲兵連隊 第1大隊 Radfahr-Abteilung 44 : 第44自転車大隊 Panzer-Jäger-Abteilung 46 : 第46対戦車大隊 Pioneer-Bataillon 80 : 第80工兵大隊 Nachrichten-Abteilung 64 : 第64通信大隊 Feldersatz-Bataillon 44 : 第44野戦補充大隊 Sanitats-Abteilung 44 : 第44衛生大隊 そして、1943年に再編制された第44帝国擲弾兵師団の編制は下記の通り。 Reichsgrenadier-Regiment ”Hoch-und Deutschmeister” : 帝国擲弾兵連隊”ホッホ・ウント・ドイチュマイスター” Grenadier-Regiment 131 : 第131擲弾兵連隊 Grenadier-Regiment 132 : 第132擲弾兵連隊 Artillerie-Regiment 96 : 第96砲兵連隊 Aufklärungs-Abteilung 44 : 第44偵察大隊 Panzer-Jäger-Abteilung 46 : 第46対戦車猟兵大隊 Granatwerfer-Bataillon 44 : 第44迫撃砲大隊 Pioneer-Bataillon 80 : 第80工兵大隊 Nachrichten-Abteilung 64 : 第64通信大隊 Feldersatz-Bataillon Hoch und Deutschmeister : 野戦補充大隊”ホッホ・ウント・ドイチュマイスター” Sanitats-Abteilung 44 : 第44衛生大隊 ここまで時系列に編制を見てみると、”Hoch-und Deutschmeister”はウィーン第4歩兵連隊から継承された部隊名である事が理解出来ると思うが、この部隊名は1696年にフランツ・ルートヴィッヒ、ラインのパラティーネ伯爵、ノイベルクのデューク公爵に認められた精鋭連隊名に由来するもので、オーストリア帝国時代の軍事史に於ける最も名誉ある部隊名であった。 因みにHochmeisterで騎士団の団長の意、Deutschmeisterはドイツ騎士団長を指し、Hoch-und Deutschmeisterは騎士団長兼ドイツ騎士団長と言う意味になる。したがって、本来はHochmeister und Deutschmeisterと記すが、これを略して記すとHoch-und Deutschmeisterとなる。 第44歩兵師団は、冒頭で記したように1943年2月にスターリングラードで壊滅した。 そして、1943年3月から7月の間に、ベルギーで再編制された。この時の所属はD軍集団の第15軍。 再編制と訓練はベルギーで行われたが、兵員の募集はオーストリアより行われ、第44歩兵師団に所属し東部戦線で負傷したため、本国で治療後復帰出来た将校や下士官を基幹として、新たな部隊が作られた。 1943年8月には、B軍集団予備として北イタリアに移動、12月には連合軍の進出に伴いローマの南に移動している。 そして1944年1月は、今回のイベントの設定時期となる訳であるが、モンテ・カッシーノに至る高地群に構成されていた複数の防衛線で、北上を試みた連合軍を迎え撃ち、甚大な損害を与えていた。 |
|
第44歩兵師団の師団章。 前述の様に、これは旧オーストリアの国章である。 師団章は、師団所属の車両を始め、師団所属の兵舎、各司令部、野戦病院や野戦郵便局、更にそれら施設を示す道路標識などに描かれていた。 |
|
第44帝国擲弾兵師団の師団章。 この師団章はドイツ騎士団(チュートン騎士団)のマントに描かれた十字をモチーフにした物で、師団名でもある”ホッホ・ウント・ドイチュマイスター”に因んで変更されたのだろう。 師団章は、師団所属の車両を始め、師団所属の兵舎、各司令部、野戦病院や野戦郵便局、更にそれら施設を示す道路標識などに描かれていた。 |
|
Reichsgrenadier Regiment Hoch-und Deutschmeister 帝国擲弾兵連隊”ホッホ・ウント・ドイチュマイスター”について この連隊は44歩兵師団では”Infanterie-Regiment 134:第134歩兵連隊”であったが、1943年の再編制後にオーストリア軍時代の部隊名を名誉称号としてヒトラー総統より授けられ、Reichsgrenadier Regiment Hoch-und Deutschmeister:帝国擲弾兵連隊”ホッホ・ウント・ドイチュマイスター”と改名された。 帝国擲弾兵連隊”ホッホ・ウント・ドイチュマイスター”は第44帝国擲弾兵師団に所属していた3個擲弾兵連隊の1つで、あとの2つは第131擲弾兵連隊と第132擲弾兵連隊であった。 師団自体は、帝国擲弾兵師団とされていたが、他の2個連隊は通常の擲弾兵連隊で部隊名に”帝国”は冠されていない。 |
|
”第I大隊 第2中隊”について ドイツ軍の一般的な歩兵連隊は、2~3個歩兵大隊から成り、各大隊には4個の中隊が所属していた。 中隊には通し番号が振られていたので、第1~第4中隊は第Ⅰ大隊に、第5~第8中隊は第Ⅱ大隊、第9~第12中隊は第Ⅲ大隊に所属した。 また、ドイツ軍の大隊番号はローマ数字で表記する事とされていた。 中隊とは、最低単位の輜重部隊を含む、いわば自立行動可能な最小単位の部隊規模を意味するが、補給所は大隊規模から用意されていたので、大隊の支援無しに存続する事は困難であった。 また、ドイツ軍では、各部隊に野戦郵便番号が付与されていたが、これも時期によって変更される事が多かった。 因みに今回の設定部隊である、第Ⅰ大隊第5中隊は、1943年9月8日より”39264”が付与されていた。 この番号は、第Ⅰ大隊本部と、第1~第4中隊の共通番号であった。 |
|
1944年3月23日制定の徽章であるため、今回のイベントでは佩用出来ないが、この徽章は肩章に付ける部隊章で、制式には”Deutschmeister-Kreuz:ドイツ騎士団長クロス”、またの名を”Stalingrad-Kreuz:スターリングラード・クロス”と言い、戦争末期に制定された徽章であったが、部隊将兵の多くが着用していたとの証言が残っている。 デザインは師団章と同じく、マルタ十字と呼ばれるドイツ騎士団(チュートン騎士団)のマントに描かれた十字をモチーフにした物で、伝統的な部隊色であったブルーの彩色が施され、金で縁取られていた。十字の中央には画像の様に国家鷲章が配され、その下には”Stalingrad”の文字がレリーフされていた。 また、規定外の着用法として、この徽章を軍帽の左側面に付ける者もいたが、禁止令等が出される事も無く、大目に見られていたそうである。 |
|
リエナクトメントにおける”糧食”について ドイツ軍は各地域毎に軍管区を設けて部隊の徴兵から訓練、補充を行っていた。 これは、地域毎に行う事による行政面での合理性だけでは無く、ドイツ語には方言が多く、食生活にも地域差があった事が無関係だったとは考えにくい。 事実、1941年の補給部隊マニュアルを見ると、郷土色の強い食材にも食材ナンバーが付けられ、補給品目に載っている。 軍としては、ある程度は統一メニュー化を目指しつつも、地域の食を全く無視する事は出来なかったのであろう。 具体的には、ドイツ軍の食の中心を担っていたコミスブロートにしても、ライ麦と小麦粉の比率や形には多数のバリエーションが存在するが、これは補給や調達によるものだけでは無く、一般的に北ではライ麦比率が高く、南では小麦粉比率が高いパンが食されていた事が無関係とは言えない。 部隊と時と場所を設定すると言う事は、その部隊の兵達の出身地による食の特色、その時期と場所の補給・調達状況を考慮した上で、メニューを考える必要が生じる。 そして、メニュー決定に際しては、実際の軍隊同様に限られた予算を無視する事は出来ない。 まさに、リエナクトメントは事前に始まると言っても良いだろう。 |
|
|